2005年12月31日

拉致犯罪人 辛光洙(シングァンス)の当時の新聞記事

○朝日新聞 夕刊 1985年(昭和60年)6月28日 金曜日
日本人ら致、身代わりスパイ
宮崎から北朝鮮に韓国発表 工作員ら3人拘束
 
【ソウル二十八日=小林(慶)特派員】韓国の国家安全企画部は二十八日、大阪の中華料理店に勤務していた日本人コックを朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にら致し、本人になりすまして日本に住み、スパイ網をつくって活動を続けていた北朝鮮スパイ、辛光洙(五六)=朝鮮労働党所属=と、辛に抱き込まれスパイ活動を行っていた金吉旭(五七)=大阪市、衣類小売商=、方元正(五〇)=東京都、ニューコリアン酒屋経営=の三人を国家保安法違反、スパイ罪などの容疑でソウル地検に身柄とともに送検したと発表した。日本人になりすましてスパイ活動をした例は過去にもあるが、そのため日本人を北朝鮮にら致したケースは今回が初めてといわれる。

 同部の発表によると、主犯の辛は北朝鮮の最高首脳から「日本人をら致し、本人になりすまして在日工作を続けよ」との指令を受け、八〇年四月、李三俊・在日朝鮮人大阪府商工会元理事長らと計画を練り、李氏が経営する中国料理店「宝海楼」=大阪市天王寺区下味原=に勤める日本人コック原敕晃(ただあき)さん(四九)が独身で身寄りの少ないことに目をつけた。

八〇年六月、原さんを「良い職場を世話する」とだまして宮崎県青島にある李吉炳・在日朝鮮人大阪府商工会長所有の別荘に連れ込んだ。さらに青島海水浴場の児童公園に誘い出したうえ、ここで待ち構えていた北朝鮮工作員四人と力ずくで口をふさぎ、手足をしばった後、袋に入れて八人乗りゴムボートで五百メートル沖に待機していた北朝鮮の工作船に移し、辛が同行して北朝鮮へ連れ去ったという。このあと辛は、原さんの経歴、家族の構成、過去の生活から中国料理法までマスター、完全に本人になりすまして、八〇年十一月、日本に不法入国し、原さん名義の旅券、運転免許証、国民保険証などの発給を受け、韓国へ来るなどしてスパイ活動を続けていたという。

 辛は、日本で在日僑胞十二人のスパイ網を作り上げる一方、朝鮮総連系の在日僑胞を在日韓国居留民団(韓国系)に偽装転向させ、その友人である李成洙氏(四七)=会社副社長=らを巻き込んで韓国の国家機密を集めていたという。去る二月二十四日、辛は組織点検のためソウルを訪れたが、李副社長が自首したためスパイと分かり同月二十六日逮捕された。 同部は主犯、辛が日本人になりすました際使っていた戸籍などの各種文書、北朝鮮の指令受信装置、暗号書、抱き込み対象者名簿など多数を押収し発表している。

 さらに同部によると、原さんは本籍が島根県松江市天神町四五ノ九で、長崎市鍛冶屋町七二で生まれ、長崎で中学校を卒業したあと、長崎市立商業学校を三年で中退、五八年から大阪市の中華料理店を転々としながらコックを務めていたという。原さんは身寄りが少なく、母親の違う兄、原康二さん=長崎市浜町在住といわれる=がいるが、この二十年間接触がなかったという。
 辛の自供によるとら致された原さんは北朝鮮で「元気でいる」という。

 長崎市立長崎商業高校の話では昭和三十一年五月末に同校を病気中退した生徒に「原勅晃(ただあき)」という人がいた。昭和十二年八月二日生まれで、当時長崎市東浜町(現浜町)に住み、両親が亡くなっていたらしく兄の耕一さん(五八)が保護者になっていた。耕一さんは現在、浜町の商店街で万年筆店を経営している。

「寝耳に水…何のことか」商工会幹部ら 李三俊・元理事長は朝鮮籍の在日二世。在日朝鮮人大阪府商工会の役員などを歴任し、約六年前に「宝海楼」を始めた。韓国政府発表のスパイ事件を報道関係者から聞き、「寝耳に水で驚いている。私には何のことかわからない。原という人物は確かに数年前まで店で働いていた。しかし、『体がもたない。やめたい』と言い出したので、仕事ぶりもまじめでなかったのでやめてもらった」と話している。

 また、同商工会の李吉炳会長(七〇)は二八日、朝鮮総連中央本部で「びっくりしている。宮崎へは終戦直後に一度だけ行ったことがあるが、別荘など持っていない。原という日本人も、もちろん知らない。南北の対話ムードに水をさすひどいでっち上げで許せない」と話した。
 李吉炳会長は、済州島出身の在日一世。戦前から日本に住んでおり、同商工会の副会長を経て、三年前から会長〈注〉在日朝鮮人大阪府商工会 大阪府下の在日朝鮮人商工業者の権益を守るため、終戦直後につくられた組織で、会員約五千二百人。在阪の朝鮮人の商工業者の団体では最大で、大阪市北区中崎に本部、大阪府下二十四カ所に地域の商工会がある。

○過去にもら致事件? 警察庁、情報入手を急ぐ 
日本人になりすました「北朝鮮スパイ」が韓国で逮捕された事件について警察庁は二十八日、過去にも日本人がスパイにら致された疑いのある事件が起きているため事態を重視、大阪、宮崎両府県警に対し、原さんが行方不明になった前後の行動の 確認など実態の解明をするように指示した。また、外務省を通じ、逮捕された北朝鮮スパイの供述などの情報入手を急いでいる。
 
警察庁によると、北朝鮮スパイが日本で検挙されたケースは今年三月までに四十三件ある。これらのスパイは、治安当局によると
(1) 密入国して北朝鮮に家族や親類などがいる在日北朝鮮人に協力を求め、この在日北朝鮮人になりすます
(2) 日本人と偽装結婚する
(3) 身寄りがなかったり、家族から隠れて生活している蒸発人間になりすます、
などして旅券を入手していた。

 ところが、今回の事件をきっかけに日本の治安当局がスパイによるら致事件の疑いを改めて強めているのは、五十三年七−八月にかけて北陸を中心に日本海側で相次いで起きた四件の蒸発、ら致未遂事件。同年八月五日夕、富山県高岡市の海岸を散歩していた会社員(二八)と婚約者の各種学生(二一)=いずれも当時=が、四人の男に襲われ布袋を頭からかぶせられたりして連れ去られそうになったが、未遂に終わった。このとき、会社員が後ろ手にかけられた手錠や二人がはめられたゴム製のさるぐつわが日本製でないことなどから、背後関係が注目された。

 警察庁の指示で全国の警察が行方不明や蒸発事件を洗い直した結果、この年の夏、福井県小浜市(七月七日)、新潟県柏崎市(七月三十一日)、鹿児島県日置郡吹上町(八月十二日)で挙式直前の婚約者同士や帰省中の東京の大学生、電電公社員が、それぞれ女友達と海岸を散歩中に行方不明になっており、いずれも蒸発の原因などがまったくないことや、それぞれ近くに乗ってきた車や自転車などをキーをつけたまま駐車していたことなどから、地元警察で現在も「何らかの事件に巻き込まれた疑いがある」として捜査を続けていた。
 警察庁などはこれら一連のら致、未遂事件の解明を急ぐ一方、各警察本部に警戒を指示している。


○毎日新聞 夕刊 1985年(昭和60年)6月28日 金曜日
身代わりスパイ逮捕
旅券入手目的 北朝鮮に日本人ら致 韓国発表

 【ソウル二十八日重村特派員】韓国の国家安全企画部は二十八日、日本人になりすまし、日本の旅券で韓国に入国した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のスパイと、在日韓国人ら三人を逮捕したと発表した。この北朝鮮スパイは日本の旅券を入手するため、日本人を北朝鮮にら致した事実も自供したという。
 
北朝鮮のスパイ容疑で逮捕されたのは、主犯の辛光洙(五六)と、大阪市東成区小橋三の三の二三、衣類販売、金吉旭(五七)▽東京豊島区要町二の三〇、自営業、方元正(五〇)の三人。

 安全企画部の発表によると、辛は大阪市生野区鶴橋にある中華料理店「宝海楼」で働いていた日本人、原敕晃さん(四九)を北朝鮮にら致し、辛が原さんに入れ代わることを計算した。この計画に基づいて辛らは八〇年六月中頃、原さんを宮崎県青島海岸に連れ出し、待ち合わせていた北朝鮮工作船に原さんを乗せ、ら致した。

 辛はその後、北朝鮮で原さんに入れ代わる訓練を受け、八〇年十一月に再び日本へ密入国した。辛は原さんになりすまし、住民登録を済ませ、原さん名義の旅券と運転免許証などを入手した。辛はこの旅券を使って八二年以来六回にわたり東京と欧州、平壌の間を往復した。

 辛は韓国内でのスパイ組織づくりのため、今年二月二十四日に方元正とともにソウル入りした。辛は方の親戚にあたる退役将校を仲間に加えようとしたが、この退役将校が当局に訴えたため、二月二十六日にソウル市内のホテルで逮捕された。金吉旭は辛らの逮捕を知らずに韓国に入り逮捕された。
 原さんのその後の消息について、辛は「北朝鮮に帰ったときに当局者に聞いてみたが、元気でいるとだけ教えられた」と自供しているという。


○毎日新聞 1985年(昭和60年)6月29日 土曜日 朝刊
警察庁事実調査を指示
北朝鮮スパイ事件 日本人コックら致で

 日本人になりすましていた「北朝鮮スパイ」が韓国で逮捕された事件で、警察庁は二十八日、日本人コックの原敕晃さん (四九)が北朝鮮にら致されたとすれば略取の疑いがあるとして、大阪府警や宮崎県警など関係府県警に事実関係の調査をするよう指示した。韓国の国家安全企画部は、原さんのら致について日本国内にまだ共犯者がいることを指摘しており、警察庁 では犯罪事実が裏づけられれば韓国側から捜査資料の送付を受けて、独自捜査に着手する方針。
 
韓国で摘発された辛光洙(五六)=朝鮮労働党所属=ら三人は、国家保安法違反、スパイ罪などを適用されて逮捕された。 日本にはこれに見合う法律はなく、違法性を追求できないが、韓国国家安全企画部では「辛らが八〇年六月中頃に原さんを宮 崎県青島海岸に連れ出し、北朝鮮工作船に無理矢理乗せてら致した」としており、同庁は略取の疑いが強いとして原さんが行 方不明となった前後の行動など事実の解明を急いでいる。
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拉致犯人 辛光洙(シン・グァンス)関連資料

○「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」
私どもは貴国における最近の民主化の発展、とりわけ相当数の政治犯が自由を享受できるようになりつつあることを多とし、さらに残された政治犯の釈放のために貴下が一層のイニシアチブを発揮されることを期待しています。
在日関係のすべての「政治犯」とその家族が希望に満ちた報せを受け、彼らが韓国での社会生活におけるすぐれた人材として、また日韓両国民の友好のきづなとして働くことができる機会を与えて下さるよう、ここに心からお願いするものであります。

1989年 大韓民国
盧泰愚大統領貴下                     日本国国会議員一同
***********************************************************************************
○署名した現職国会議員(05年7月現在)
土井たか子 衆議院 社民党 兵庫7区 (日朝友好議連)
菅直人 衆議院 民主党 東京18区
田 英夫 参議院 社民党 比例 (日朝友好議連) 
本岡昭次 参議院(副議長)  民主党(元社会党) (2004年引退)
渕上貞雄 参議院(社民党副党首) 社民党 比例 (日朝友好議連)
江田五月 参議院 民主党(元社民連) 岡山県 
佐藤観樹 衆議院 民主党(元社会党) 愛知県10区(2004年辞職 詐欺容疑で逮捕)
伊藤忠治 衆議院 民主党(元社会党) 比例東海
田並胤明 衆議院 民主党(元社会党) 比例北関東
山下八洲夫 参議院 民主党(元社会党) 岐阜県 (日朝友好議連)
千葉景子 参議院 民主党(元社会党) 神奈川県
山本正和 参議院 無所属の会 比例 (社民党除名)(日朝友好議連)
 
○菅直人が釈放を要求した「工作員全リスト」(週刊文春) 
間抜けは誰か――。安倍晋三官房副長官が言い放った「土井たか子氏と 菅直人氏は間抜け」発言が、みっともない展開を見せている。
 話の発端は89年。韓国の盧泰愚大統領へ、土井氏や菅氏ら133名の 国会議員が、『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』という署名を 提出したことに始まる。「政治犯」29名を列挙して無罪放免を訴えた ものだが、その中に原敕晁さん拉致事件の実行犯、北朝鮮工作員・辛光洙が 含まれていたのだ。

「菅事務所側は署名当時、辛光洙のことを知らなかったと言い、逆に安倍 事務所に電話でこう告げたそうです。『蓮池さんらが拉致された78年当時の 官房長官は、(安倍氏の父の)晋太郎さんですよね。誰が間抜けな官房長官 だったか、という議論になりかねませんよ』。脅しとも取れる言い方に、 安倍事務所側は唖然として返す言葉がなかったそうです」(自民党関係者)
 拉致被害者の家族がテレビで切々と真相究明を訴えているのに、何とも みっともない応酬である。菅氏は自身のホームページで謝罪したものの、 「事実関係を再調査中」と記している。
 しかし、安倍発言の13年前、すでに小誌は、土井氏ら署名議員の 間抜けぶりを指摘していた(89年9月28日号参照)。さらに今回、 菅氏に代わって「再調査」すると、辛光洙以外にも多くの工作員の存在が 新たに判明した。確かに間抜けではない。大間抜けだったのである。
 まず、警察関係者の証言。
「29名中、スパイ容疑で逮捕されたのは10名弱です。彼らは日本に 滞在中、北朝鮮からの工作船の接岸ポイントをつくったり、自衛隊や 米軍基地の情報収集を行なっていました」

 次に、元朝鮮総連幹部の張明秀氏が解説する。
「列挙された政治犯の多くは、有名な工作員グループに在籍していました。 ひとつは『烽火山グループ』。これは関東地域で秘密工作を行なっていた 朝鮮総連の非公然組織です。責任者は総連東京本部の金学根副委員長。彼らは在日韓国人を”獲得”して、”教養”と称するスパイ教育を施すんです。北朝鮮に密航させて、”教養”を受けさせることもありました。また、在日だけでなく、韓国に密航して”獲得”して来ることもあった。 スパイに仕立て上げられた若者たちは、対南工作要員として韓国に潜入するのです」

 また、菅氏らが署名した釈放要請書には、辛光洙の共犯者・金吉旭の名前や、 75年に大阪で発覚した「学園浸透スパイ団事件」の中心人物・白玉光と 共謀者3名、「鬱陵島拠点スパイ団事件」なる韓国東海岸の鬱陵島を拠点にスパイ網を張っていた地下工作員グループのメンバーも名を連ねている。彼らのほとんどが、日本から何度も北朝鮮に密航してはスパイ教育を受けていた。

 張氏が続ける。
「名前があがっている徐勝は、72年11月に開かれた韓国での第2審で、北朝鮮に2度渡って労働党員になったことや、長兄に誘われてスパイ団に 入ったことを認めているんです。この公判には、日本から大勢の救援団体が押しかけましたが、徐勝の証言を聞いて運動は白け、鎮静化しました。しかし80年2月、朝日新聞は徐勝の母親のインタビュー記事を、同情を誘うような内容で紙面いっぱいに掲載。これで救援運動が再燃しました。雑誌『世界』や和田春樹東大教授も追随して、その結果、徐勝以外の辛光洙らすべての政治犯まで『釈放せよ』という運動に広がってしまったんです。当時、土井たか子が国会の壇上で雑誌を振りかざし、この問題に言及していた姿を今でも覚えています」
 こうした日本の政治家の自覚の甘さを、北朝鮮は常に利用してきた。知らなかったでは到底済まされない。


○「拉致犯釈放」署名のマヌケ仲間(週刊新潮)
拉致問題で御託を並べる野党議員に安倍晋三官房副長官が反発。かつて韓国で 逮捕された日本人拉致犯の釈放を求めた連中を名指して”極めてマヌケな議員”と揶揄したが……実は青島幸男前都知事や村山富市元首相以下約130人の政治家も同罪なのだ。
 
 安倍官房副長官が暴露したのは土井たか子社民党党首と民主党の菅直人前幹事長の名前だけである。しかし、彼らが署名した『在日韓国人政治犯の 釈放に関する要望』と題する嘆願書を読むと、いかに13年も前(89年)の行為とはいえ、その不見識ぶりには顔を覆いたくなるほどだ。
<貴国においては……十数名の在日韓国人及び、ほぼ同数の在日関連者が今日も「政治犯」として獄中にあります>
 以下、合計29人の釈放要望者名を列記。しかもそこには日本人拉致犯のリーダーで、北朝鮮の大物スパイ・辛光洙の名前まで入っていたのに、
<彼らが一日も早く釈放され、家族の元に帰ることができるよう切に願っております>
 と、したり顔で嘆願、これを当時の盧泰愚・韓国大統領に届けたというのである。現代コリア研究所の佐藤勝巳所長が苦言を呈する。

「彼らは在日韓国人の訴えで行動したつもりでも、実際には裏にいる北朝鮮の工作員に踊らされていただけでね。主体性の欠片もなく、どんな書類にでも署名してしまう政治家の無責任さには呆れます」 この嘆願のおかげもあって、86年に韓国の法廷で死刑を宣告された辛光洙は99年に出獄。強制送還された北朝鮮では英雄として迎えられ、今も羽振りを利かせている。

「日本人拉致被害者名簿には、80年に拉致され、死んだとされた原敕晁さんの名前もあった。しかし拉致グループのリーダーだった辛は、正にその原さんのパスポートで日本人になりすまし、85年に韓国で逮捕されたのです。彼の身柄が現在も確保されていたら、拉致被害者の様子や正確な人数が、もっと知りえたはずだった」(北朝鮮ウォッチャー)
 結果的には辛光洙の釈放に利用されただけの嘆願書だったが、驚くのは、これに当時の野党政治家128人が堂々と署名していたことだ。

 本紙はその署名簿の全コピーを入手。先の菅、土井の他に山口鶴男、田辺誠、村山富市、青島幸男、上田哲、田英夫など、かつての有力議員達に混じって公明党の塩出啓典元議員以下6名も名前を列ねているのを確認したのである。

 で、さっそく当事者達を直撃、その言い訳を聞いてみると……当時、社民連に所属していた菅直人議員は言う。
「釈放を要望した人物の中に辛光洙がいるとは知りませんでした。そんな嘆願書に署名したのは私の不注意ですので、今は率直にお詫びしたい」
 
案外、素直に反省してみせるのだが、既に政界から去ったOBや長老連中は、とても一筋縄ではいかない。かつての社民連代表・田英夫氏が、
「あの時代の韓国政府に対する嘆願書の類は、社会党の議員と一緒に年に2回位ずつ出していたからね。問題の書類がどれだったか、今ではとても 思い出せませんよ」
 と惚ければ、社会党の書記長だった山口鶴男氏も言う。
「サインは秘書が代筆したのかもしれない。が、いずれにしろ当時、朝鮮労働党と友党関係にあった我々にさえ、彼らが拉致犯人の存在を隠していたのは遺憾に思うね」
 まるで浮世離れしているのだが、そんなところは村山富市元首相も青島幸男 前都知事も……なぜか、そっくり。
「そんな嘆願書の存在自体をわしゃ、覚えてない」(村山氏)
「えー、今は休憩中と書いておいてくれと、青島本人が言っています」(マネジャー氏)
 マヌケどころか実体は、無責任極まる御仁達なのだ。

○管直人が釈放を要求した「工作員全リスト」(週刊文春)
 間抜けは誰か――。安倍晋三官房副長官が言い放った「土井たか子氏と 菅直人氏は間抜け」発言が、みっともない展開を見せている。
 話の発端は89年。韓国の盧泰愚大統領へ、土井氏や菅氏ら133名の 国会議員が、『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』という署名を 提出したことに始まる。「政治犯」29名を列挙して無罪放免を訴えたものだが、その中に原敕晁さん拉致事件の実行犯、北朝鮮工作員・辛光洙が 含まれていたのだ。

「菅事務所側は署名当時、辛光洙のことを知らなかったと言い、逆に安倍事務所に電話でこう告げたそうです。『蓮池さんらが拉致された78年当時の 官房長官は、(安倍氏の父の)晋太郎さんですよね。誰が間抜けな官房長官だったか、という議論になりかねませんよ』。脅しとも取れる言い方に、安倍事務所側は唖然として返す言葉がなかったそうです」(自民党関係者)
 拉致被害者の家族がテレビで切々と真相究明を訴えているのに、何ともみっともない応酬である。菅氏は自身のホームページで謝罪したものの、 「事実関係を再調査中」と記している。
 しかし、安倍発言の13年前、すでに小誌は、土井氏ら署名議員の間抜けぶりを指摘していた(89年9月28日号)


○当時の社会党委員長山花貞夫氏の週刊文春の取材に対する回答
『なお「在日関連者」とは一時的にせよ日本に滞在し、滞在中の言動が韓国において罪に問われた「政治犯」(国家保安法の適用等)を指すと理解している。辛光洙氏が日本人コックの原氏を北朝鮮に拉致したかどうかについては、韓国当局の一方的発表が報道されただけで、事の真否を確認する立場にはないが、日本における言動が問題にされている以上、辛光洙氏を「在日関連政治犯」の範疇から除外する積極的理由はないものと思われ、その人権上、人道上の問題について関心を持つのは当然である。』週刊文春1989年9月28日号

「安倍副長官の『間抜け』発言は断じて許さない」民主党佐藤国対委員長2002年10月21日

 民主党の佐藤敬夫国会対策委員長は21日、安倍官房副長官が19日に民主党の菅直人前幹事長、社民党の土井たか子党首と両党について「きわめてマヌケな議員」「ちゃんちゃらおかしい」などと発言したことについて、「地方ではキャンキャン言うくせに、国会では堂々と真正面から答弁しようとしない。このような発言は、政治家としての資質が問われる」と厳しく批判した。

 安倍官房副長官の発言は、菅前幹事長と土井党首が、原敕晁さんを拉致した北朝鮮の元スパイ、辛光洙(シンガンス)元死刑囚の釈放を韓国政府に要求したことがあるという事実を挙げ、「土井たか子と菅直人はきわめてマヌケな議員なんです」と批判したもの。同氏はさらに、「社民党や民主党が、いかにも昔から拉致事件に取り組んでいるかのように、小泉純一郎首相の決断を批判するのはちゃんちゃらおかしい。彼らはまず反省すべきだ」と、両党にも批判を向けていた。

 これに対して佐藤国対委員長は、問題の韓国政府への要求は13年前になされたものであり、当時菅前幹事長は社民連所属だったと指摘したうえで、「安倍副長官こそ、自分が平壌に行ったときには、総理の袖を引っ張って『帰りましょうよ』と言ったらしいが、こどもの使いじゃあるまいし。今回の補選での『政治とカネ』という本来の争点をぼかすために、北朝鮮問題を政治利用していることは明らかだ」とし、今後予算委員会などで安倍副長官を厳しく追及することを表明した。

 この件について、菅前幹事長は、自らのホームページの中で「13年前の130数名の超党派の国会議員の要望書に私の名前があるということで痛烈に批判している。当時の記憶をたどると、要望書は韓国の民主化運動で逮捕された東大生など在日韓国人について韓国政府に対し釈放を要望するという趣旨で同僚議員から賛同を求められたもの。対象はあくまで民主化運動に関係した在日韓国人の政治犯と説明され、この中に日本人に成りすました北朝鮮の工作員シンガンス容疑者が含まれていたことは当時全く知らなかった。事実関係を再調査しているが、シンガンス容疑者が含まれた政治犯釈放の要望書に名を連ねていたとすればそれは私の不注意。お詫びをしたい」と説明している。

○140 衆院・外務委員会 1997/06/04

○安倍(晋)委員 そういう意味では大分いろいろな情報をとっていただいたわけでございますが、このことは本当に参考になっていくのではないか、私はこのように期待しておりますので、今後とも調査をしていただきますように、よろしくお願いしたいと思います。

 国会におきましても、拉致疑惑に関する日本人及び日本人の家族に対する支援をする議員連盟が発足いたしまして、大変な数の議員に参加をしていただきました。残念ながら、まだまだ自民党、新進党以外の皆さんには、余りたくさんの皆さんには参加をしていただいていないわけでございますが、こうした議連が今後果たしていく役割は大変大きなものがあると思いますし、北朝鮮に対して大きなプレッシャーにもなる、こういうふうに思っております。北朝鮮に早く人道的な支援をしようという心優しい人たちが余り参加をしていただいていないという皮肉な現状にあるわけでございますが、今後とも議連を通じて私も頑張っていきたい、このように思っておる次第でございます。

 続きまして、警察庁に質問をいたしたいと思うわけでありますが、先般十六日も質問をいたしました辛光洙事件であります。
 この辛光洙事件というのは、日本人の原敕晁さんに北朝鮮の、これはかなり大物スパイと言われておりますが、辛光洙が入れかわって、この原敕晁さんを拉致して、原敕晁さんに成りかわって辛光洙が入ってきて、原敕晁さんの名前でパスポートあるいは免許証も取得をして、そして韓国に再入国をしていろいろな活動をしていた中で逮捕をされたということであります。

 裁判記録からもいろいろなことがはっきりしてきているわけでございますが、我が国国内の北朝鮮系の商工団体の会長、理事長が実際にこの原敕晁さんを拉致する謀議に明らかにかかわっていたということも裁判記録ではっきりいたしているわけでございまして、その二人とも特定することができます。一人は、原敕晁さんが勤めていた中華料理店のオーナーであり店長であります。この人がその商工団体の理事長だったわけでありますが、彼が、自分のところにいいのがいるからこれを拉致してしまおうということで謀議した結果、原敕晁さんはある日忽然と姿を消すわけであります。そして、この成りかわった辛光洙がスパイとして活動したということであります。

 皮肉なことに、この辛光洙につきましては、一九八九年七月十四日に、盧泰愚大統領に対して、在日韓国人政治犯の釈放に関する要望というのを出したのですね。これは、衆参超党派の百三十数名の議員の皆さんが、この二十九人の政治犯を釈放してくれ、この人たちは無罪だと言って、土井たか子さん、菅直人さんを初め多数の議員の皆さんが釈放要求したわけでありますが、なぜかこの二十九人の政治犯の中にこの辛光洙が入っていたのですね。

 この辛光洙というのは、まさに原敕晁さんに成りかわって、我が国としては許すことのできないスパイですね、その人を釈放しようということを何と我が国の国会議員がやっていたので、私は大変驚いてしまったわけであります。

 この辛光洙は今刑務所で服役中であります。この辛光洙については、十六日の当委員会でも私が質問したように、パスポートあるいは免許証、これを公文書偽造している、我が国の国内の法律にも違反をしているわけでありますから、当然これは警察もこの辛光洙を韓国政府とかけ合って調べるべきである、私はこういうふうに思うわけでございますが、警察庁の御見解を承りたいと思います。

○内田説明員 委員御指摘の辛光洙事件でございますけれども、この辛光洙事件も含めまして、一連の北朝鮮による拉致の疑いのある事件につきましては、今後とも、韓国当局との情報交換を含めまして、関係機関と連携をしつつ、所要の捜査を継続してまいる所存であります。よろしくお願いします。

○安倍(晋)委員 これはまさに国家による犯罪なのですね。国家による犯罪ですから、これを解決していくためには、やはり国家が強い意思を持って相対していかなければ、決してこれを解決することはできない、このように思うわけであります。まさにその入れかわってしまったスパイが捕まっていて、その人に対してまだ尋問を行っていないとすれば、怠慢のそしりを受けてもしようがないのではないか、私はこういうふうに思っております。

 そして、しかも調書の中で謀議に加わった人たちがのうのうとしているわけであります。それで本当に我が国の治安が守られているかどうかというのは、これは本当に耳を疑わざるを得ないようなことが公然と起こっているわけでございます。
 その点について外務大臣にお伺いをしたいと思うわけでございますが、この調書をとるべく韓国政府にぜひとも交渉をしていただきたいと私は思うわけでございます。外務省としての御見解をお伺いしたいと思います。

○池田国務大臣 我が国の法に違反した行為が行われた場合には、当然のこととして、捜査当局中心に政府としてもきちんと対応しなくてはいかぬ話だと思います。ましてや、我が国の国民の安全にかかわる問題であるならば、外務省も含めまして、政府としても当然大きな関心を持っているところでございますので、いずれにいたしましても、関係省庁ともよく相談をしながら適切に対応してまいりたいと思います。

○安倍(晋)委員 では、もう一度警察にお伺いします。この辛光洙を尋問するのですか、しないのですか。答えてください。

○内田説明員 先ほどもお答え申し上げましたけれども、辛光洙事件を含めまして一連の北朝鮮拉致の疑いのある事件につきましては、韓国当局との情報交換を含めて、関係機関と連携をしつつ、所要の捜査を実施してまいる所存でございます。
 なお、個別の事件の捜査の個別具体的な内容につきましては、捜査上の秘密の保持というような観点から、答弁を差し控えさせていただきます。

○安倍(晋)委員 当然、その秘密の保持というのも必要なのでしょうけれども、我々としては、疑いとしては、本当にやっているのかどうかという疑いを持たざるを得ないのですね。今まで何回かの拉致議連において関係省庁の皆さんにお集まりをいただきまして質問をさせていただいたのですが、そういう疑問も本当にわいてくるような答弁ばかりであったわけでございます。

 ですから、きょうは厳しく質問をさせていただいているわけでございます。ぜひとも、そこにもうスパイが捕まっているわけですから、しかもこの人は原敕晁さんに入れかわってしまったわけですね。原敕晁さんはいまだに行方不明なのです。ですから、その重要な、容疑者というよりも、これはもう刑が確定している人ですね、確定しているわけですよ、韓国において。ですから、その人に尋問をしないというのは、もう全く捜査当局がやる気がないということ以外にはないと私は思うわけでありますから、これはぜひともやっていただきたい。政府が強い意思を持って韓国側と交渉して、この辛光洙に対する尋問を行っていただきたいと強く要求をいたしたい、このように思う次第であります。
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2005年12月12日

深刻な中国の健康被害

◎深刻な健康被害 「汚水の中に沈む」中国

 先月の石油化学工場爆発事故による松花江汚染をきっかけに中国の野放図な経済発展モデルが生み出した深刻な水汚染への危機感が高まっている。国営新華社通信は五日、長江(揚子江)に流れ込む汚水が1980年代の倍の年間二百八十八億トンになったと警鐘を鳴らした。総人口十三億人のうち三億六千万人が汚染により安全な飲用水を得られず、水による健康被害が広がる中、一部地域では汚染絡みの暴動も発生。このままでは中国は汚水の中に沈没しそうだ。

 「井戸水は生臭く苦い」。五輪を三年後に控える北京の郊外。阿蘇衛ゴミ埋め立て場周辺に点在する「病人村」では村人がこう訴える。
中国紙・経済参考報(一月十日付)によれば、その一つ牛房圈村では成人の60%がぜんそく、肺気腫、がんなどを患い、家畜の死産も多発しているという。井戸にゴミ埋め立て場の汚水が染み出したためだ。

 中国当局の統計によれば、工業排水の三分の一以上、生活汚水の九割以上が未処理のまま河川湖沼に垂れ流されている。全国の河川湖沼の七割が飲料水に適さない水質で、全国で利用される地下水の97%が程度の差こそあれ汚染され、近海の35%は工業用水にも使えない程度のひどい汚染という。
 この結果、人口の27%にあたる三億六千万人が安全な水を得られず、一億六千万人が有機物汚染水を常飲。発がん性を持つフッ素、ヒ素を含む水の常飲は、それぞれ推計六千五百万人、二百万人にのぼる。

水汚染による健康被害の統計はないが、長江、珠江流域にみられるがん発生率などの異常に高い農村の存在は中国メディアも問題視している。

 中国では毎年新たながん患者が百六十万人発生、うち百三十万人が死亡。悪性腫瘍発生率はこの二十年で29%上昇した。障害児の出生は年八十万−百二十万人で、新生児の4−6%と極めて高い。これら統計と汚染の因果関係は不明だが、中国環境科学研究院の趙章元研究員は中国紙上で都市部の悪性腫瘍、死産、障害児出産などの発生率突出は、環境汚染、特に地下水汚染が関係あると警告している。

 今年は深江省などで水汚染問題が暴動に発展する例も明るみに出た。浙江省東陽市郊外の村では農薬工場の排水による水源汚染で異常出産などの健康被害が続出、地元政府が陳情の村民の弾圧に出たため、四月、三万人規模の官民衝突が発生した。河南省修武県馬坊村では鉛工場による紛塵、水汚染で村の児童の90%が中毒になったが、工場が操業停止に応じず、今年一月、村民が工場を襲撃する事件が起きている。

 北京の中央研究機関に属する水環境問題の専門家は「中国の水汚染の健康被害は、日本の高度成長期の比ではない。しかし当局はわれわれが実態調査しようとするのを喜ばない」と訴える。調査し被害状況が白日のもとにさらされれば、膨大な数の賠償問題が発生し、企業の水汚染を黙認してきた地方政府への国民の怒りが中央に向かう可能性もあるからだ。

 しかし、実態を隠したままでは有効な対策を立てることも、国際社会に応援を求めることもできまい。中国はこのまま汚水の中に沈む覚悟なのか、問いただすのは苦い経験を持つ一衣帯水の隣国の役割だろう。(産経新聞 北京 福島香織)
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2005年12月10日

私は北ベトナムのゲリラ隊を養成した

◎私は北のゲリラ隊を養成した
ベトナム友好協会常任理事・慶応大学教授(昭和48年当時) 加茂徳治

 私は昭和十七年二月、最初の学徒兵として第二師団(仙台)に入隊、その年の秋、予備士官学校を卒業して、ラバウル(ガダルカナルの北)をふり出しに、フィリピン、マラヤ、ビルマを転戦してインドシナのフランス軍と闘い終戦をサイゴンから西北のロクニン(南ベトナム)で迎えました。終戦後、部隊は警備のためファンライエットまで行きました。ファンライエットという所はサイゴンの北東二〇〇キロの位置にあります。その時、すでに、北の方では八月革命がおこっていました。

 当時、ファンライエットには、ベトミン軍がおり、日本軍を入れないという。ベトミン軍の協力がなければ買物に行くにしても市場へ行くにしても行けない。それをベトミン軍と接渉してやっと海岸の元フランス人の別荘地区に入れてもらいました。うちの部隊は百名前後いたでしょうか、そこへ押しこめられた形になったんです。

 あらゆる生活がベトミン軍の協力がなければ成立しない。ということで、初めて、ここでベトミン軍との接触が生れました。うちの部隊には、ベトナム人の通訳がいまして、これがベトミン軍の協力者だったんです。
そんなこともあって、ベトミンとは比較的うまくいきました。食料も売ってくれて部隊の生活はうまくいきました。条件はベトミンからの要請で、帯剣も銃もダメ、丸腰で出てくれというんです。そうしな
いとベトミン軍とぶつかる、衝突が起こるというんです。

 それで丸腰という条件をのんでうまくやろうという姿勢をみせました。ところが、ある日、日本軍と衝突事件がおこったんです。それで私が、ベトミンと交渉に出かけたんですがそのまま帰してもらえなかったんで。交渉に行ったのは、将校だったという責任上からもありましたが、また、うちの中隊を扱った通訳と気心がしれていたということもあります。

やむをえず、私はそのまま残らざるを得なかった。で残ってなにもしないでいるとカムラン湾にあるニヤチヤン、(通称ニャトランといわれており、かつてアメリカの特殊部隊がいた所)のべトミンを指導してくれという話になったんです。当時、私は中尉でした。

○フランス軍への強い敵愾心
 二ヵ月ほどして、ファンライエットに帰りました。、その時、ファンラィエットではフランス軍が入っていましたのでベトミンからの要請で三十名ほどのゲリラ部隊を組織したんです。
 武器といっても、小銃が三丁、軽機関銃が一丁(これはベトミンがもっていた)、それに手榴弾が一コあったかどうかという程度で、あとはみんな素手です。

その時に、サイゴンから逃れてた日本兵が、五、六名いました。その日本兵に、日本製の軽機関銃をわたしました。ゲリラ組織といっても訓練も何もない。ベトナム人たちは、軽機関銃の使い方もしらないというような状態です。
     
 ベトミンの生活は、村人の支援がないと出来ない。ゲリラ部隊を組織してから、ある時、村長さんが飛んできて、フランス軍がくるという。それじゃ、いっちょうやろうかということになったんです。そこで、私は山の中に隠れました。山といっても丘陵地帯です。南ベトナムは平野地帯が多い。

 田んぼの方を二つに分け、我々は、山の方とヤブの方へ入ったんです。そうすると、フランス軍はゆうゆうと入ってくる。民家に入って略奪を開始した後、いい具合にフランス軍は、我々が隠れているヤブの下の大きな木の下で昼飯を食いはじめたんです。

 それを我々は見つけ、軽機関銃を主体にして攻撃することにしました。作戦はまず軽機で撃つ。そうすると、フランス軍は山の方へ逃げようとする。その時、小銃をもっている者は撃て、あとの連中は、ワーと大きい声をだせ。そうすると絶対、山に入ってこないだろう、というものです。

 軽機関銃というのは一瞬の勝負です。実際一瞬のうちに勝負は決まり、八名ほどフランス兵は倒れました。逃げたものはどうしょうもない。
 この戦闘の結果をみて、村の人たちは、大喜びです。フランス軍がやられたのを初めて見たというんです。村の人たちは、もう家を焼かれても惜しくないというんです。それだけフランス軍に対する敵愾心が強いんです。フランス人が殺されるのを見たのは初めてだというんですからね。

 その時、銃を二、三丁とりました。ゲリラの原則として、敵の銃をとるということなんです。
 その時、一個大隊、五、六百名のフランス軍がきて、迫撃砲射をしました。それで、その周辺におられなくなったんです。フランス軍はベトミン軍にいる我々日本人を指名手配しました。

 そのため、私たちは船で三日三晩かかって、北ベトナムの方へ逃れました。昼は、船底にかくれ、夜は船上に出て、空気を吸うという状態です。そうして着いたのがクアンガイという中部ベトナムです。そのクアンガイでは、ベトナムでは、はじめての士官学校を作っていたんです。陸軍中学と称していましたが、その教官にならないかということになったんです。

 最初に、私がゲリラ組織を提案したのは、ベトナムを解放しようというほどのものではありません。自分たちの村を守るには、どうすればいいかということからはじまったんです。
 しかし、兵器はない。訓練は出来ていない。というんで、小さいながらも組織を作ろうということになったんです。最初のゲリラ組織でフランス軍を打ち破ったファンライエットの闘いで、あとで聞くと、賞状をもらうはずだったのです。

この最初のゲリラ組織を作るという私の提案にベトミンが乗ったということから話ははじまったんです。
 クアンガイの陸軍士官学校では、教官四人が日本人でした。それぞれ日本人の下士官が助手としてつきました。はじめは、このクアンガイの学校だけが、ベトナムの士官学校かと思っていたところ、もう二つ、ハノイ
周辺にあったんです。

 その一つは、バクソンという学校で日本人の教官が三人です。あと一つは、ソンタイというところにある学校でハノイから四〇キロの所にあります。これは、昔、フランス軍が作ったんです。ここには、日本人の教官はおらず、ベトナム人の教官だけでした。だから、いま(昭和48年当時)の北べトナムには、日本人からならったグループとベトナム人からならったグループの二つの系統があるんです。日本人からならった中では、いま、副師団長のような高級幹部がいます。

 このクアンガイから第一期生がはじまり、一九四六年の暮、全国抗戦にむけて卒業しました。士官学校での訓練計画では軍事教育の一切の権限をまかされました。若気のいたりというわけか、その教育は、日本式でやりました。当時の学生たちは、非常に優秀なのが集まってきました。ちょうど日本でいえば大学卒業者にあたります。革命当時のベトナムでは、九五%が文盲の時代というわけですから、彼らはエリート中のエリートになります。

将来のベトナム軍隊の中核を作ろうということでした。期間は六か月で卒業です。卒業後は、全員汽車でハノイに向け出発しました。当時のハノイは、フランス軍が来ていて、一触即発の状態、危険な状態です。それで、ハノイに入れず、ソンタイに入り、そこから各地に向かったんです。次の第二期生の段階から士官学校も一本化しました。それは武備学校(ベトナム語でボービ)と呼ばれました。そこには、日本人とベトナム人の教官がいました。

 一九四六年暮から、抵抗という段階に入りました。ゲリラの抵抗というのは、抵抗している間に力をたくわえようということです。幹部が全国に散った段階が第一の闘いとすると、次の抵抗の時期というのは、兵力保存の闘いなんです。
 当時のベトミンは兵器もそろっていない。素手で闘っている状態なんですから、基本方針として、敵の兵器を奪ってわがものにするという考えです。

 ゲリラ戦、遊撃戦というのは、敵の兵器をうばって自分たちの装備にする。そして、闘いながら大きくなり、更に闘うということです。この思想、方針がいまでもあります。
 小銃といっても、日本製、中国製、イギリス製、フランス製ありという状態です。当然、弾丸も違う。兵器が完備していないから、正規軍には発展しない。
小グループによる闘いということになる。これがゲリラ戦、遊撃戦になるんです。だから、最初の闘いは、五人、十人対十人、二十人という闘い。それから、人数がふえていって、百人対一個中隊という闘いになっていくんです。その中で戦闘経験を積む。南ベトナムの解放戦線というのも、そういうものです。

 その解放戦線のゲリラ戦術に待ちぶせ攻撃というのがあります。敵が何時に通過するか統計をとるんです。パトロールというのは、決まった時間にくるはずです。通るコースはどうで、大体どこで何時間かかるか、の統計をとって、待ちぶせして攻撃するわけです。

 攻撃方法はいろいろあります。頭と尻をたたく、そして真ン中を攻撃する。混乱したところで真ン中をうつ。これはいまでもアメリカ軍に対してやっています。これは、相当、綿密な調査が必要です。ザップも、霧が深くて失敗したこともあると書いています。この戦術は、グエン・ホエが清の部隊を破った時にもあります。

 人民戦争というのは、衆知を集める。その面白い例が、アメリカ軍のセパード犬の鼻をひんまげる方法です。解放戦線側が穴にもぐる。しかし、セパード犬にかぎつけられてしまうんです。ところが、ニンニクならいいということがわかった。嗅覚がしびれるんです。逃げるときに、ニンニクを置くと、そこまでセパードは来るがそれ以上はダメなんです。

 コウモリを使うということもあります。コウモリがアメリ力の拠点にある巣に帰るのを見る。習性をよく調べる。そしてコウモリに火縄をつけるんです。そして飛ばす。南の田舎は、わら屋根が多いから、巣に帰ると自然に火事になる。その火事になったときに攻めるんです。
 これでは、アメリカ軍の近代装備もどうしようもありません。

 フランスとの抵抗戦術の時に使ったのは、道路に穴をあける、落とし穴があります。フランスとの闘いには、竹を鋭くして落とし穴に入れるんです。南では、五寸釘をつけるんです。それが、鉄板のようなシューズを作るきっかけになったんです。この鉄板シューズを、日本が作ったということもありました。この落とし穴の戦術は、フランス軍との闘いから作ったんです。

 また、敵のバラシュート部隊が地上におりられないように、杭を鋭くしたようなものを原っぱにさしたこともあります。
蜂の巣使った素朴な戦術も 南の中部高原には、鋭い弓をもっている狩猟民族がいます。
彼らが放つ矢というのは、10センチほどの厚板をぶち抜くような力があるんです。
 フランス人もそうでしたが、この矢が大嫌いなんです。音もなく来る。非常に不気味だということですね。夕方、うすぐらい時に、至近距離でやる。そうすると、フランス兵は算をみだして逃げるんです。相手に対する心理的影響が大きいんです。

 竹釘のついたふりこ戦術というものもあります。石にワラを巻くんです。竹の釘をいっぱいさす。それを木にぶらさげるんです。ひもでぐっと引く。それを通り道においておくんです。
木の上からアメリカ兵を見ている。アメリカ兵が縄の距離内まできたら縄を切るんです。現実には一人しか死なないかもしれない。しかし、アメリカ兵はものすごくこわがるんです。近代兵器をもっているのに、古い武器にはこわがるんです。

 例えば太鼓です。太鼓をどんどん使うんです。それを聴くとゾッとするとアメリカの捕虜がいったんですから確かです。インディアンの太鼓がこわいんですね。日本の基地にいるアメリカ兵も、日蓮宗の妙法寺の太鼓がこわいといいます。想像もつかないがそうなんです。最初は何げなくやったのが効果があったんでしょう。よく相手を研究し、心理作戦が非常にうまい。

 また蜂の巣を使った素朴な戦術もあります。アメリカ兵のパトロールの道に大きい蜂の巣をぶら下げるんです。アメリカ兵がちょうどその蜂の巣にぶつかる時に、矢で蜂の巣を破る。蜂が出る、アメリカ兵が逃げる。
どこまでも蜂というものは追っかけますからね。これなどは、一般大衆のチエです。 かつて、ソ連の軍事視察団が北ベトナムを訪ずれたときファントムを小銃で落としたという話を信用しなかったことがあります。ミサイルでも難しいのに小銃ではなおのこと難しい。

 ファントムが急降下する。それをじっと待っているわけです。小銃の弾でもあたれば大きいです。正面から射つわけですが、出来るだけ近づいて射てばいい。ベトナム人に聞いたら、やはりこわいというんです。しかし「私もこわいが相手のパイロットもこわいだろう。目をそらしたら負け、自分が打ち殺されるか相手を落とすかどちらかだ」というんです。この場合、低いほど効果があるんです。300メートル、400メートルじゃダメ。その接点が難しいんです。これはコンピューターでは分析できません。問題は思想闘争なんです。
科学では分析できない。科学プラス・アルファなんです。

 ベトナム人の自由と独立への深い決意、そのための英知はいろんな形であらわれました。
 基本的なのは、ホー・チ・ミンのいう自由と独立です。勝つためには、どうするか、子孫が生きるためにはどうするか、そのへんの読みが浅いとまちがえてしまう。鉄砲さえあればいいというんじゃないんです。
そして、戦術も百年というんじゃなく、ずっと昔から伝わっているものが多いということです。        
posted by ディポ at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事・外交 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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