2006年05月30日

日本が韓国に提供した技術

いつまで経っても日本を貶める韓国
日本の援助なくば韓国の今は無かったという証拠
まったくゼロであった韓国に多くの技術提携とロイヤリティをただ同然で提供したという事実を知るべきであろう
「現代コリア」出典されていたものである
提供は「いいかげんにしろ韓国」祥伝社 豊田有恒

韓国へ提供された日本の技術_1280.jpg
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2006年05月28日

玉砕した日本軍の奮闘ぶりを称えたニミッツ提督の詩

南太平洋のペリリュー島では昭和十九年九月十五日から七十三日間、
中川州男(くにお)連隊長以下一万名が、米海兵隊と激闘を続け、
七十三日もちこたえて遂に玉砕した。
その壮絶ぶりに対して米軍は「天皇の島」と名付け、
太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥は、
次のような詩を作り、日本の軍人魂を称えた。

Tourists from every country who visit this
island should be told how courageous and
patriotic were the Japanese soldiers who all
died defending this island.

この島を訪れるもろもろの国の旅人たちよ。
故郷に帰ったら伝えてくれよ。
この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。
その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!
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2006年05月27日

在日韓国朝鮮人のデータ

民団の統計資料に一部修正を加えて提示した
在日韓国朝鮮人データ.xls
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2006年05月25日

「支那」呼称不使用の経緯

「支那」と言う呼称は決して差別的呼称ではなく古くから普通に使われている
中華民国という国が成立してから「支那」と言う言葉を使わなくなった
支那と言う言葉は戦勝国の一員となった中国の求めに応じ次官や局長通達を出してしまった
チョッと待ってくれ
英語のチャイナ、仏語のシーヌ、南シナ海や東シナ海が良くて「支那」の言い方がなぜか
嫌い。
それは日本に対する言葉の差別である、日本は漢字を表意文字として使用しているのであり、中国に使用を統制されるいわれはないのである。


「先方嫌がる」と外務省通達
 語源に差別的意味なし
 政府は、昭和二十一年六月六日付で、「支那」に関する外務省次官通達と、その内容をさらに細かく記した次のような総務局長通達を出しています。

 「中華民国の国名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通に行はれて居たのであるが、其の後之を改められ中国等の語が使はれてゐ・る処、支那といふ文字は中華民国として極度に嫌ふものであり、現に終戦後同国代表が公式非公式に此の字の使用をやめて 貰ひ度いとの要求があつたので、今後は理屈を抜きにして、先方の嫌やがる文字を使はぬやうにしたいと考へ、念のため貴意を得る次第です」この総務局長通達は先の大戦後に連合国のー員として央京に代表団を派遣してきた中華民国から、「支那」をやめて中華民国の国号を用いるよう要求があったことを踏まえて出されたものです。

 もともと中華民国は、昭和五年五月に日本政府に対して、中華民国という国号を使用することを求め、「支那」の文字を使用した公式文書は受け取りを拒絶すると通告をしており、日本政府は同年十月に「支那」を中華民国と呼ぶよう閣議決定していました。しかし、日本国内では「支那」という言葉はその後も使われ続けました。

 「支那」の語源については、インドの仏教が中国に伝来するとき、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を、当時の中国人の憎が漢字で「支那」と当て字にしたことによるものだとする説などがあります。

 また、「チーナ」は中囲の最初の総王朝である秦に由来するともいわれ、この秦がさらに西方に伝わって、英語のチャイナやフランス語のシーヌなどになっていったとも言われています。

 「支那」という言葉きたといわれていますが、広く用いられるようになったのは江戸時代末期になってからです。差別的な意味などがなかったことは、語源をみても明らかだと思います。

 しかし、戦勝国の一員となった中国の求めに応じて、外務省が「理屈を抜きにして」次官や局長の通連を出してしまった結果、「支那」という言葉は日本回内では公式には「死語」となってしまったというのが実情のようです。
    (笠原健)産経新聞から抜粋 
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2006年05月23日

何がストレスで、その解消法は?

男性が家庭に安らぎを感じ、妻は夫をストレスと感じるというとんでもないアンケート結果が出た
日本の家庭の価値観は女性から崩れだした
女性は家族を持つと言うことに価値を見出さなくなって、外に喜びを見出している
決して健全な家族とは言いがたい

昨日 NHKで“家族に乾杯”という番組をやっていた
小浜市の6+2人家族、7+2人家族の大家族のお母さんがそれぞれ子育ては楽しい、幸せだと言っていたのが印象的であった
家庭も持ったことのない女性学の学者に踊らされた現代のお母さんたちは小浜の大家族を見習って欲しいものです

ストレスの解消_640.jpg
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2006年05月22日

ドイツ人追放で200万人が死亡

終戦処理と言うものは勝てば官軍であり、敗者の悲劇は約半世紀の間耐え忍んでようやく公にすることが許される
ヨーロッパにおいても国境の仕切りなおしで、何世紀にも亘って他国で生活の基盤を作り、平穏に暮らしていた1200万人のドイツ人が故郷を追われ先祖の地ドイツに強制移住させられた。
この移動の途中に虐待と飢えで200万人が死んだという

またポーランド人もソ連領になった母国から170万人が強制移住させられた
ヨーロッパにも日本人と同じ苦しみを味わった人々がいる歴史的事実を知るべきである

ドイツ人に対する強制移住_320.jpg
●ドイツも被害者として歴史再評価の「民族強制移住」記念館を計画
 読売新聞02.8.16から引用【ベルリン15日=宮明敏】
第二次大戦中のポロコースト(ユダヤ人大虐殺)などへの責任の大きさから、自らの戦争被害者としての側面に光を当てるのがタブーに近かっだドイツで、ドイツ人が戦後のドイツ領縮小に伴って、ポーランドやチェコスロバキア(当時)から大量追放されだ史実を後世に伝える記念館が生まれようとしている。独連邦議会がこのほど、建設計画に基本的に同意したためで、北大西洋条約機構(NATO)域外への派兵などに続く、過去に縛られない「普通の国」(シュレーダー首相)への歩みとして注目される。

 第二次大戦の戦後処理に当たっては、英、ソ、米の三首脳によるテヘラン会談(1943年)でポーランド領を大きく西に移動させる方針が決まり、最終的に西ウクライナなど戦前のポーランド領の三分の一がソ連領に、その代償として、ドイツ領だった東プロイセンやシレジア地方などがポーランドなどに編入された。さらに、ポツダム協定により、新国境に合わせて各民族の強制移住が実施され、最大の被害者となったドイツ人はポーランドから三百三十万人以上、チェコスロバキアから約二百八十万人が追放されるなど、計約一千二百万人が逃げるように西へと移動せざるを得なかった。追放されたドイツ人団体の連合体「追放者連盟」(Bdv)によると、この移動の途上、虐待や飢えなどのために、二百万人が死亡したという。

 記念館は、こうしたドイツ人の苦難の歴史も伝えていこうというもの。Bdvが設立のイニシアチブをとり、連邦議会は「二十世紀の欧州で起きた民族強制移住」全般を学問的に跡づけるという趣旨で賛同した。

 ドイツでは今春、左派の代表的知識人でもあるノーベル賞作家のギュンター・グラス氏が、この追放の際の悲劇を題材にした小説を発表し、ベストセラーになるなど、加害者一辺倒の歴史評価を見直す機運が新たに生まれていた。記念館設立は、そうした動きの延長線上にあるとも言える。

 ただ、設立場所はまだ決まっていない。Bdvは「追放された人たちの避難所となり、あらゆる面で(二十世紀の)欧州大陸の運命を象徴するベルリンが最適」 (エリカ・シュタインバッハ会長)と主張しているが、独・ポーランド議員連盟会長でもあるマルクス・メッケル元東独外相らは、ポーランド・シレジア地方の中心都市ブロツワフ(ドイツ語名ブレスラウ)を提唱している。

 ポーランド人も戦後、ソ連領となった地域から約百七十万人が移住を余儀なくされており、ブロツワフは「ドイツ人追放が起きただけでなく、(西ウクライナなどから)ポーランド人が移り住んだ場所でもあり、追放の歴史の両面を伝え得る場所」(メッケル氏)というのが、その理由だ。ポーランドの一部知識人グループもこれに賛成している。

 しかし、ポーランドでは、記念館のブロツワフ建設案を「内政干渉と見る人がまだ多い」(独ウェルト紙)。
あるブロツワフ市民はドイツのテレビ局のインタビューに「(建設案は)時期的にも、考え方としても誤りだ」と語り、加害者としてのドイツ人の過去は、そう簡単にはぬぐえないと強調した。
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2006年05月20日

旧日本軍兵器引継書

日本の未来を救う世紀の発見
「正論」6月号に“スクープ!遺棄化学兵器は中国に引き渡されていた”という大スクープの記事が載っていた
元全国抑留者協会会長 斉藤六郎氏が引継書の原本を入手して、山形県にあるシベリア資料館に保存していた
中国は引継書は存在しないとして中国・ロシアの破棄弾薬まで日本に始末させようとして日本を欺いていた
その経費今で一兆円これからも益々吹っかけられて日本が搾り取られる構図ができていた
しかしこの世紀の発見により政治家が腹を据えて中国と交渉することにより
この経費を掠め取られなくて済むようになる
誰が交渉の矢面になるか
日本には中国に○○玉を握られて中国のために働く政治家がごろごろいる
福田であれば中国の言いなりになるであろう
阿部ちゃんに最期の期待をする

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旧日本軍兵器引継書4_512.jpg
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2006年05月17日

中国・韓国に対する国民の意識

外交に関する世論調査(内閣府大臣官房政府広報室)
http://www8.cao.go.jp/survey/h17/h17-gaikou/index.html

中国に対する親近感.bmp

現在の日本と中国との関係.bmp

現在の日本と韓国との関係.bmp

現在の日本と韓国との関係.bmp
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2006年05月13日

ロシアの人口構成と増減率

日本ばかりでなくロシア(特にロシア人)でも人口の減少に頭を悩ましている
ロシアは日本と違って多民族国家であり、民族構成のバランスを崩すと国家崩壊の危機になる
特にロシア人(8割)とイスラム系及びその他(2割)ではその増減率から将来逆転も考慮しなければならない
ということは近隣のイスラム教国との間に国防の軋轢も起こってくる要素が生起する
人口問題は国家存亡にかかわる問題である

成_512.jpg
ロシア 毎年70万人減少
大統領が出産支援策
教書演説育児手当を倍増
  
【モスクワ=内藤泰朗】ロシアのプー千ン大統領が、ソ連崩壊以来続く人口減少に歯止めをかけようと躍起になっている。大統領は千口の二〇〇六年度年次教書演説で、「産めよ、増やせよ!」(ロシアの国営テレビ)と大号令を発し、これを受けて、政府や議会は早急な対策のとりまとめに着手した。
 「一番大切なのは愛だ」―。大統領は千口の演説で、ロシアでは毎年七千万人ずつ人口が減っていると指摘、国家の存亡にかかおる重大な問題だとの認識を示した。
 そのうえで、「政府や議会などあらゆる国家機関が総動員体制で、問題の克服に全力で取り組まなければならない」と大号令。具体策として育児手当の倍増や育児休暇中の母親の権利保護など女性が子供を出産しやすい環境整備などの大統領案を披露した。ロシア政府も、近日中に人口増のための対策を出すと言う
 ロシア連邦国家統計局によると、人口は一九九三年の一億四千八百六十万をピークに毎年減少を続け昨年は一億四千三百五十万人に。ただ、八九年と○二年を比べると、約八割を占めるロシア人
が2・1%減、ウクライナ人が31・7%減など、スラブ系の減少が著しいのに対し、南部カフカス系住民などは逆に軒並み50%以上の伸びを記録。
 それだけに「ソ連的な上からの命令で女性は出産するわけではない。南部では人口は増えているし、政府の支援だけで口シア人が減少する問題は解決できないだろう」と、冷めた声もあがっている。
                         産経新聞から引用
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2006年05月09日

金鵄勲章

金鵄勲章(きんしくんしょう)とは、戦前の日本において大日本帝国陸軍・海軍の軍人、軍属に対してのみ授与された唯一の勲章。名前の由来は神武天皇の東征における伝説に基づく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%B5%84%E5%8B%B2%E7%AB%A0
金鋏勲章_640.jpg
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2006年05月08日

昭和20年10月現在 連合国軍初期進駐図

日本の敗戦に伴い10月15日現在の2ヶ月の間に39万余り(沖縄駐留は不明)の軍隊を日本全土に展開した
北海道    20,700名
東北     33,860名
信越     16,000名
関東    112,895名
近畿・東海 107,245名
四国     12,000名
中国     23,000名
九州     66,716名
  合計  392,506名(一部不明)

※外務省発表資料
 「連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局並びに委員会所在地一覧図」
 「終戦事務情報3号」に準拠
クリックすると大きくなります
連合国軍初期進駐図.jpg

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2006年05月07日

ベトナム戦争におけるの韓国軍の行状

ああ, 震撼の韓国軍!
ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録

(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)

戦争はこんな所でも起きたのだろうか. 丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し, 椰子の樹とマンゴ―とパパイヤ, バナナの樹…. 窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている. 太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている.真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う. 果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか. 理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場, その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.

生き残った老僧の証言 "
1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. は、この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"

(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)

筆者は2年前,ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から- 南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた. 私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書, しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった.それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’ 韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した. ‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある. “日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである. 筆者は初めて寄着時から同行することにした.

ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ. 最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず, 歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ ‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった. 私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した.しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた. 蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも,一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.

翌朝, 私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた. 元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて, パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ. わたしたちはすぐさまそちらへ走った. そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ ユエンハン(45)に会うことができた. ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が, 認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.

子供も妊婦も容赦なく…
(写真/'忘れたい戦争'. 韓国軍に殺されたベトナム人の数は、公式統計だけでも 4万1450名だ.)

“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました. 続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました. そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する. リンソン寺には、五人の僧侶が住んでいた. その時、プフ僧侶は住持僧より先に村におりて行き、喪家で読経を行っていた. 証言の大部分はユエンハンを通じてなされ, その寺で唯一の生存者のプフ僧侶は口数が少ない. 当時の話をしながらも、人々はその時の虐殺の主人公の後裔に配慮してくれた. 冷たいお茶を持ってきて, 果物の皮をむいて薦めてくれ, パパイヤを食べて汚れた口をすすぎなさいと、水まで汲んできてくれた時には、涙が溢れ出た.

プフ僧侶が村に帰ってきた時、寺は既に修羅場と化していた. プフ僧侶は火にくべられていた五人の僧侶の死体を近隣の小屋へと移した. 死体奪取に対する不安からあった. このことが伝えられると, パンラン地域全域の学校が休学を決議して, 学生達と仏教徒たちが一斉に蜂起した. “ベトナム政府は良民虐殺を即刻中断しなさい!” “人殺しはベトナムを出て行け”等等、凄まじい叫び声がパンランを巻きこんで, 僧侶たちの死体は12日を過ぎてやっと火葬できた.

“火葬をしても、僧たちを安息させられなかった. 僧たちを祭る寺が消えたからですよ. 僧たちの骨を壷に納めていたのですが、やっと昨年、この寺に安置してあげましたよ.”プフ僧侶がやや低めな声で話を続けた. 韓国軍人たちの銃器乱射事件で廃虚になった寺は、その後また再び爆撃を受けて跡形もなく消えた. そして、昨年、仏教徒の在米ベトナム同胞の援助でまた寺が建てられた. プフ僧侶は30年ぶりに住持僧としてこの寺に帰ってくることができた. 寺の前に当時死んだ僧侶たちの遺骨が納められた三重塔がある. 私たち一行はその前に頭を下げて、僧侶たちの冥福を祈った.

どちらかというと、私達がリンソン寺で聞かなければならなかった話は、今から会う、数多くの証言の中でも最も安らかな話になるかもしれない. 大雄宝殿の席から見下ろすと, 空と海と野原がひと目で見渡せた. どこに目を向けても、限りなく平和なだけの, 限りなく懐かしいだけの風景, しかしその中には、まだどれくらい多くの話が隠されているのだろうか?. ‘私と私たち’一行は、韓国軍の軍事作戦が最も熾烈に展開された中部地方にまた再び旅立ち, 筆者はリンソン寺を振り返りながら、振り払えない重い歩みでホーチミンに帰ってきた.

"女性たちを強姦した後、殺害"

韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる. 前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索, 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた. 筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが, その一部をここに紹介する.

1965年12月22日,韓国軍作戦兵力2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して, きれいに燃やして,きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた. 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供,22人の女性,3名の妊産婦,70歳以上6名の老人を含む,50余名を超える良民を虐殺した.

"… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました. 彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました. 妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり, 子宮が外に出ていました. 韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して, 子供の頭を切り取って地面に放り投げ, あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.

彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し, ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました. そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"

パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた. “見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です.” 1966年 3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ. “手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね. ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません. ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです.” 当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊 3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて, そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった. また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ, 649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された.

このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して, 韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した. 生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射, 大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害, 家屋への放火などだ. 生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる-住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.

-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.

-子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.

-女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.

韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた. 老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった. 恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか

私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ. 韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによってベトナム戦に軍事的な介入を始めた. 以後、65年から73年まで、約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という美名の下、ベトナム戦線に投入した. この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した. しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)をおさめもした. 我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである. それも、公式的な統計上でだけ!

そして戦争は終わった. しかし、終戦24年を迎える、この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている. 韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い. 20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ. 加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、私たちに未来はないだろう. たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても.

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか.
ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員

vninfobank@hcm.fpt.vn

ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号 .
Copyright 1995-1998 ハンギョレ新聞社
webmast@news.hani.co.kr

これらの記事は、元々韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が自ら取材し、韓国・ハンギョレ21誌の決定で掲載したものです.当"風窓"webに翻訳・掲載しているものは2001年12月17日現在では以下の通りです

2001年9月374号
[報道 その後] 大統領も “ごめんなさい ベトナム”
2001年4月356号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ ファッション登場?
2000年12月339号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ 世界へ!
2000年6月312号
勲章を捨てた父
99年12月287号
ベトナムの熱い感動!
99年11月282号
兄さんの重荷を減らしてください
韓国とベトナムの読者の手紙
99年10月278号
報道 その後‘ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’
99年5月256号
ああ, 震撼の韓国軍!
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
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2006年05月06日

朝鮮軍司令部で出した朝鮮兵の注意書き

旧日本陸軍の朝鮮兵に対する注意書き
『朝鮮軍司令部1904〜1945』古野直也著 国書刊行会より

南方軍及び第十四軍に在留する者は本表に含まざるものとしその配当に関しては内地人に準ず
註 本表の他朝鮮軍管区より鎮海鎮守府に海軍現役水兵5000、整備兵1000、機関兵500、工作兵金属1800、木工兵500、合計1万名

昭和二十年は四万六千名を徴兵している。
 これらの朝鮮兵は、入営が十九年の秋以降にずれ込んだために本土と朝鮮防衛の部隊に入り、南方の戦地で死んだ者は日本兵に比して多くはなかった。すでに船舶が底をついて、海外には送り難かったのだ。初めて管理する朝鮮兵の扱いについて陸軍は通達を出し.細部まで注意事項の厳守を求めていろ。特に目をひく項目は次の如くである。 
          ‐
一.いつ、いかなる特でも唐辛子粉を食事に際し好きなだけ使わすこと。
一.絶対に頭、体を叩いてはいけない。怨みを持って復讐する気質があり脱走の原因となる。
一.清潔な食事運搬用バケツと雑巾バケツの区別をよく教えること。
一.危険な状況下では銃を投げ捨てて哀号!と泣き出す習癖があるから日本兵ニ名で一名の朝鮮兵を入れて行動せよ。

昭和十七年の夏、マレー半島とシンガポールからイギリス人捕虜、将校以下千人が到着し、京城及び仁川に収容所を設置する。日本はジュネーブ条約の捕虜に関する事項については調印していないが、条約の精神は尊重する旨公表していた。下士官兵は仁川で港の貨物荷上げ労働につき、将校は京城で労働はさせない方針であった。マレー方面の将官級は台湾南部に収容されていた。

 朝鮮人は李朝末期以後、神に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここへ来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。東南アジアから朝鮮まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人三千五百人が従事していた

弱者に残虐性を発揮する民族性のゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい。
敗戦後、個人的怨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。
白人こそ報復と復讐の大家だったのだから。

 昭和十八年秋から内地人、朝鮮人の学徒出陣がはじまった。アメリカでは開戦と同時に学園は開店休業で空になったといわれているのからみると遅れているのに驚く。これは中産階級以上の家庭の心理的動揺を憂慮して控えたのが原因といわれている。

 少年飛行兵は、朝鮮青年を昭和十八年から人校させている。大戦末期の沖縄特攻の攻撃出動は一隊五機編成で、隊長(陸上出身の中尉)。逓信省航空乗員養成所出身の伍長一名。少年飛行兵の中に一名は朝鮮出身者が入っていた。沖縄の海には彼等も眠っているのだ。
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2006年05月05日

山下将軍降伏の地で朝鮮系日本兵の凶状に耳を疑う

キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景
色平 哲郎(いろひら てつろう) 内科医
 1960年生まれ。内科医。東京大学中退後、京都大学医学部卒。信州佐久総合病院で研修後、京大病院を経て1994年1月から埼玉県三郷市のみさと健和病院勤務。医療とともに、アジアなど多くのNGOのネットワーク活動を展開している。
 1994年、東京地方裁判所の依頼で東京拘置所に収監中の、刑務官から暴力的行為を受けたと訴える外国人男性を診察し、地裁に鑑定書を提出。


はじめてフィリピンへ行ったのは1986年、マルコス政権からアキノ政権に交替した直後のこと。マニラ市の郊外にフィリピン国立大学の留学生寮でアジア各国からの留学生と喋って暮らした。イラン、ネパール、ヨルダン、タイ、イラク、ヴェトナム、ガーナ、中国、韓国の男女の学生と一緒に飯を食い、プールへ行き、買い物に出かけたり、集会に参加したりした。

 一番親しくなったのが韓国出身のアンだった。控えめで小柄な苦学生の彼はアルピニストで、日本の加藤文太郎と植村直巳を尊敬する「単独行」者。冬季の日本北アルプスに単身入り2週間かけて風雪の中を主稜線まで往復してくる技量をもち、既にボルネオのコタキナバルとケニアのキリマンジャロを単独登頂したという。

 クリスマス休暇に彼と二人でルソン中部山岳地帯の小旅行に出た時には政府軍と共産軍の2ヶ月の停戦が発効していた。中部山岳地帯の最高峰MH.Pulogへのアプローチは3日、バスでバギオ迄、ジープニーで麓の村まで、そこで民宿して一気にピークへ。この山は今次大戦の激戦地だった場所で戦車や装甲車の残骸が残っていた。麓の村の短大の先生が親切にも自宅の2階を宿泊に提供してくれた上、一緒に登ろうということになった。実は彼の曽祖父は日本人だという。

 途中の高原都市バギオ周辺にも日系人は多数住んでいる。今世紀初頭スペインからフィリピンを奪ったアメリカは先ず高原に避暑地を建設した。この時中国は北清事変直後で苦力の供給を止めており、2千人の日本の若者が移民労力者として バギオまでの難工事に従事、このケノン道路の開削で多数が犠牲となった。

 現地の女性と結婚しておちついたのもつかのま、今次大戦の緒戦で日本軍がリンガエン湾に上陸、現地徴用された日系人二世は通訳として使われた。敗戦に際し、山下奉文将軍らはこの山中で最後まで抵抗、45年9月2日にキアンガンで彼が降伏して、フィリピン人にとっての悪夢の戦争は終了する。しかし日本兵は帰国できても裏切り者とされた日系二世は全員処刑され、日系人は長く山中に隠れ住んで現在に至る。
 山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その后も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない。

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2006年05月04日

人口ピラミッド

人口ピラミッド04.10.1現在_640.jpg
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2006年05月03日

2006年05月02日

B−29による殺りく 空襲の記録

昭和17年4月18日 ドウリットル中佐指揮のB25が太平洋上の空母から発進 東京など5都市を奇襲したのが日本初空襲

全国主要都市空襲人的被害要図_512.jpg

ここをクリックすれば大きく見ることができます
「全国主要都市空襲被災状況一覧」
毎日新聞社で調査 全国主要都市空襲被災状況一覧_1600.jpg
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2006年05月01日

外地からの引揚・復員一覧と引揚要図

外地からの引揚者は昭和23年までに600万人を超したがその後も耐えることなく51年までに六百二十九万702人を超えた
方面別海外引揚要図_640.jpg

ここをクリックすれば大きくなります
外地からの引揚・復員一覧
引揚 復員一覧_1600.jpg
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