2007年04月30日

主要各国の指導者の年間給与

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指導者の年間給与
産経新聞 19.4.25
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2007年04月29日

2007年04月28日

ゾルゲ事件 対日工作

ゾルゲ事件の記事  産経新聞19.04.13
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2007年04月17日

南太平洋キリバスの「醜い韓国人」

朝鮮日報【社説】2007-02-28
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/02/28/20070228000036.html

 国家青少年委員会は南太平洋のキリバス共和国で現地調査を行ったところ、韓国の遠洋漁船の乗組員らが依然としてキリバス少女に対し未成年買春を行っていることが明らかになったと発表した。

 韓国人乗組員らによる未成年買春は数年前に国際的な問題となり、青少年委員会は2005年にも現地調査を行い、対策を出していた。それから2年後、またもこうした実態が明らかになった。
 
 今回の調査で青少年委員会が面談した売春女性24人のうち、7人が14−18歳の未成年者だった。コンドームの使用に消極的な韓国人乗組員のため、3人が出産し、2人が現在妊娠中だという。
 
 国土面積約800平方キロメートル、人口8万5000人の小さな島国であるキリバスの議会は、2003年に韓国漁船の停泊を一時禁止していた。毎年数百人の韓国人乗組員が遠洋漁業基地であるキリバスに滞在したことで未成年買春が深刻化し、父の顔も知らない「コレ・コレア」2世が80人以上にもなったためだ。
 
 その深刻さは、現地では韓国人を指す「コレ・コレア」という言葉が、売春場所に使われる防波堤を意味するようになったことからもよく分かる。今では「コレ・コレアのような奴」という表現がキリバスでもっともきつい悪口として使われているという。
 
 韓国人の醜い行為は2004年にタイで開かれた「児童の商業的性搾取に関する東アジア太平洋地域行動計画履行点検会議」で暴露され、世界に伝えられた。その翌年、青少年委員会は海洋部、外交部と合同で南太平洋一帯における売春の実態調査を行い、青少年性保護法と売春防止法を国外でも適用することを決めた。
 
 しかし今回の調査で、青少年委員会は2005年に最初の調査があってから、韓国漁船が入港しなかった最初の6カ月だけは売春が中断されたものの、入港が再開してからは問題が再燃していたことが分かった。つまりは2年前に口先だけの脅しを行っただけで、何ら実効性のある対応を取っていなかったということだ。
 
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
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2007年04月16日

マナー欠如の中国スポーツ

マナー欠如の中国スポーツ
産経新聞 3月22日
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2007年04月10日

日本海の名称に関する調査記録

韓国が日本海を東海または韓国海にしようとして、嘘データを発表してまでも、世界中の地図を改悪しようとしている。
日本の外務省は正しい調査結果を発表してこれに反論している。
韓国という国は権威ある国家機関においても目的のためには手段を選ばないのが、伝統的政治手法であることを知っておくべきであろう。
↓ここをクリックしてください
大英図書館及びケンブリッジ大学所蔵の地図に関する調査

仏国立図書館の地図に関する調査
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2007年04月09日

イラク開戦4年 やまぬテロ行方見えず

数字で見たイラク戦争4周年

「統一国家」維持に試練
【カイロ=村上大介】2003年3月のイラク戦争開戦から20日(現地時間)で4年を迎える。旧フセイン政権の転覆で国民は自由を取り戻すとの当初の楽観論は消えうせ、「中東民主化」の手本となるはずのイラクは、イスラム教シーア派とスンニ派の宗派抗争の舞台となり、連日発生するテロによる流血はやまない。
「内戦」寸前の状況に終止符を打つべく米軍が2月に乗り出した武装勢力や民兵組織に対する大規模掃討作戦が、辛うじて統一国家の体裁を保つイラクの″崩壊〃を食い止めることができるのか、その行方も楽観は許さない。

 フセイン政権を転覆させた米国の描いた戦後の「民主化プロセス」は、新憲法の国民投票や総選挙を通じた昨年5月の本格政権発足で、一応の完結をみた。しかし、首都バグダッドを中心とした治安は、懸念されていた宗派抗争が昨年初めから激化したことで坂道今転げ落ちるように悪化。
旧政権残党や国際テロ組織アルカーイダの影響を受けたイスラム過激派さえ抑えれば治安は回復するとの見方は、イラクに潜在していた複雑な宗派・民族問題が表面化して、もろくも崩れ去った。

 この4年間の民間人の死者がどの程度に上るかも、昨年11月にイラク保健省が発表した「10万〜15万人」から欧州の民間調査機関による「65万人」(昨年7月段階)まで幅があり、信ずるに足る統計もないのが実情だ。

■避難民380万人 
こうした状況下で経済インフラの復興は思うように進まず、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の推計によると、治安の悪化に伴い200万人もの避難民がシリアやヨルダンなどの周辺国に逃れ、180万人が国内避難民となっているという。避難民の多くが、イラク復興の中心を担うべき知識層や中産層であることが戦後復興の難しさに拍車をかける要因となっている、とも指摘されている。
 
19日発表の英BBC放送、米ABC放送の共同世論調査によると、住民の88%が停電に深刻な不満を抱き、69%が飲料水に困っている。さらに「1年後に状況が改善する」と考える住民はわずか40%で、昨年調査の70%から大きく後退した。

■作戦を察知 
昨年12月末にフセイン元大統領を絞首刑に処し、「過去との決別」を急いだシーア派主導のマリキ政権はこの2月半ば米軍に背中を押されるようにして、シーア派民兵とスンニ派武装組織の壊滅作戦開始を発表。イラク治安部隊を前面に立てつつ、米軍が中心となって作戦を実施している。

 だが、作戦開始から1ヵ月を経過して明らかになってきたのは、宗派抗争の無差別殺人でシーア派側の実行部隊である強硬派指導屠、ムクタダ・サドル師派の民兵組織マフディー軍が、作戦を察知して事前に姿を隠す一方、スンニ派武装勢力も米軍が増強された首都での作戦が困難とみると、首都近隣での攻撃をを増やしている点だ。

 このため、大規模掃掃討戦はシーア派民兵、スンニ派武装勢力双方に対し決定前な打撃を与える段階には至っておらず、とりわけシーア派のマリキ首相を政治的に支えるサドル師の影響下にあるマフディー軍が事実上、温存されるのは確実とみられる。

■イランの影 
従来通りスンニ派武装勢力とだけ戦う結果となっている米軍は結局、マリキ政権のてのひらの上で踊らされているとの見方がある一方、周辺のスンニ派アラブ側からは、「米国も現状ではイラク分割やむなしとみて、承知でやっている」(汎アラブ有力紙アルハヤート)との見方すら出ている。

 しかし、イラク分割は、シーア派地域であるイラク南部の大油田地帯への将来的なイランの影響力拡大を招きかねない一方、北部のクルド人が独立の動きを早めれば、トルコやイランの介入を招き、別の次元で地域紛争のタネとなりかねない。

ペルシャ湾岸地域でのイランの影響力拡大を懸念するアラブ側は、イランの出方をうかがいつつ、イラク問題を中心に協調路線を模索しているが、イランの核開発問題も絡み、大きく変わりつつある湾岸の“地政学”が今後、どう展開するのか、アラブ側にとって新たな不確定要因となっている。 
        産経新聞 平成19年3月20日から引用
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2007年04月08日

2007年04月05日

戦後労働界の歩み(変遷図)

戦後労働界の歩み(変遷図)
産経新聞19.3.6から引用
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2007年04月01日

日本陸軍の育ての親 独軍人メッケル

日露戦争を勝利に導いた日本軍人に戦術を教えたメッケルという独軍人がいた。
古い新聞の切抜きを整理していたら、彼に関する記事が産経新聞に掲載されていた。
明治時代の各国武官と皇室との関わりが垣間見える。

独軍人メッケルの報告書要旨
陸軍大学完ぺきに/塩入りコーヒー飲んだ天皇

 明治時代に日本の陸軍大学の教官を務めたドイツ軍人、ヤコブ・メッケルが記した報告書の要約は以下の通り。

 東京に着任早々、明治天皇に個人的にお会いしたほうがよかろう、ということになった。ところが、フランス、オランダ、イタリアなど数百人にのぼる将官たちはだれ一人としてこうした機会に恵まれていない、ということがわかり、用心深い日本人は個人的ではなく、国家的なねたみを買うのではないか、と心配し始めた。結局のところ、春の園遊会でわたしを明治天皇に紹介することになった。

 伊藤博文・宮内卿が園遊会の前日にわたしにことの次第を説明した。だが、明治天皇は体調を崩したため、皇后が園遊会を主宰することになった。園遊会には外交官や政府高官、内外の将官が招かれていた。二つの楽団が交互に演奏する。約1時間後に大臣たちが現れると、出席者は二列の人垣を作った。大臣たちは会場をゆっくりと歩いて席に着き、ビュツフエ形式の食事をとる。
皇后は絵画のように 美しい和風の正装で現れた。

 皇太子は軍服だった。皇后は小柄で、顔は面長で整っており、主宰者として申し分のない立ち居振る舞いだった。皇后が、わたしに近づくと、前例のないことが起こった。伊藤宮内卿がわたしを皇后に紹介したのだ。
  ここで初めて「国家的なねたみ」を憂慮していた日本人に理があることがわかった。

  われわれが食事をしているとフランスの将官や駐在武官らが頭を寄せて相談し、上官である仏中将らに何やら報告した。この輪のなかにはオランダの将官たちも加わった。
 結局彼らは、皇后の好意で会場の裏庭で紹介されることになった。わたしがいつものように豪華な馬車で帰路に向かうさい、彼らがとぼとぼと裏庭に目指して歩いているさまが見えた。

 明治天皇との会見は、天皇が陸軍大学に視察に赴いたさいに行われることになった。陸軍大学は創設されてから日が浅く、戦術や参謀本部史、戦史についてはわたしの力で本格的なものとなった。大学の建物は後に豪華になったが、当時は一石の巨大な木造建築にすぎなかった。

 明治天眼を出迎えるさいには校舎前の片側に四十五人の学生、もう片側には学部長や教官、校舎のドアの前には首相や大臣、それにわたしが位置した。
 明治天皇は三人の騎兵隊員に護衛されながら、中をうかがうことのできない密閉された馬車で現れた。

 特別室ではお茶の用意がなされた。これはお茶がなければ、会議はありえない、という日本の伝統によるものだ。
 到着から約三十分後、わたしは専門の通訳付きで明治天皇に紹介された。天皇は非常に立派なひげをたくわえた中年の男性で、青白くみえた(青白さは日本では美の象徴である)。

   ×  ×  ×
 明治天皇はわたしに対し、「朕(ちん)は陸軍大学を創設することを決意したが、これは朕の将校たちに高度な軍学を身につけさせるためである。この組織をつくりあげ、育成することを手伝ってもらうためにそなたを日本に呼び寄せた。陸軍大学の水準を完ぺきの域まで高めることをお願いする。そなたの任務は重要なのだ」と述べた。

 これに対してわたしは「陛下に仕えることは非常に光栄であり、微力ながら全力を傾注する所存であります」と答えた。会見はこれで終了したが、特筆すべきは明治天皇が他の外国人に対しては言わないことをわたしに述べたことだ。この特別室は広くなかったので、明治天皇に背を向けるせるという失礼をすることなく退出することができた。

 明治天皇の訪問の目的はわたしの講義と騎兵の四列編隊の走法を参観することにあった。わたしはドイツのベルリン時代と同じように作戦表や地図をもとに講義を進めたが、こうした実戦に即した教育法は日本人にとって全く未知のものだった。

 講義は約一時間続いた。明治天皇は非常に集中して講義を追っていた。同席した日本人は、他に例を見ないほど「のめり込んでいた」と表現した。明治天皇は参謀総長を通じて「講義は非常に興味深かった。ついては続きを宮廷で勉強したい」と言ってきた。このため、この日の講義のすべてを書面に記録するとともに、使用した地図を複製することになった。
 この作業は昼前に終わり、正午には参謀本部で明治天皇とともに午さんをとることになった。

   ×  ×  ×
 食事は洋風だった。味はそこそこで、白ワインは着香してあった。赤ワインは甘ったるかったが、シャンパンは日本中のどこでもそうだが、非常に高品質だった。
 席順はドイツと同様だ。天皇のとなりと正面には皇族が座り、大臣が続く。ちなみにわたしの席順は大臣の後、参謀次長クラスだった。

 明治天皇はよく飲み、かつ食べたが、ワインをソーダ水で割って飲む好みがあった。
またほとんど一言も発しなかったが、非常に集中して人の話を聞き、閣僚の冗談には愉快そうに笑った。また、天皇はわたしを注意深く観察していたようだった。

 日本ではドイツ人は酒豪であるという評判が確立されており、わたしも「ドイツでは酒に強くないといっぱしの男として認められない」などと言ったことがあるものだから、わたしは閣僚たちからシャンパンー本分を飲まされることになった。日本では巨大な杯にシャンパンをなみなみと注ぐが、その量は一本半分にもなった。

 午さん会は珍事でもって終わりを告げることになった。
 日本では英国風にコーヒーはミルクと砂糖を入れた状態で給仕されるが、この日は誤って砂糖の代わりに塩が入れられていた。明治天皇は1口ごくりと飲み、顔をしかめた。天皇はさらにもう一度口をつけた後、憤然として席を立ったため、散会となった。
 わたしにコーヒーが給仕される前の出来事だったため当初何が起こったのか分からなかったが陸軍興が笑いながらいきさつを説明してくれた。
 もっとも、こうした珍事にもかかわらず、明治天皇は基本的に上機嫌だったという。
付け加えておけば、複数の日本人がわたしに対して「もし『塩コーヒー事件』が明治維新前に起こったら、聞違いなく何人かの高官は腹を切らなければならなかっただろう」とささやいた。

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日本陸軍育ての親 独軍人メッケル.jpg
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