2008年03月11日

戦時下沖縄県民によるスパイ活動の実態

 昭和三十七年まで多嘉良朝朋という県人が本島中部に居住していた。彼は終戦直後、「琉球王」とあだ名され、戦後も在沖米軍に絶大な発言力をもっていた男である。
 彼は昭和十九年十月上旬より米軍からコールサインを貰い、天津から密命を受けて帰省し、沖縄本島内を徘徊して日本軍の兵力配備状況や重要施設の存在を米軍に通報していたのである。
 彼に指令を出していたのが県出身で同じく天津在住の沖縄支那党の子孫林興徳である。支那党とは、琉球王府時代、沖縄に君臨した中国の帰化人を主に指す。沖縄は廃藩置県まで約四〇〇年にわたって中国の間接統治下にあった。このとき実権を握っていたのが支那党であった。

 今でも県内で、家門がこの中国帰化人であることはステイタスシンボルである。なんと現知事、その前任の稲嶺恵一元知事は選挙の際、それぞれ中国帰化人の子孫であることを誇り、選挙リーフレットにそれぞれ中国人先祖の姓を誇示しているのである仲井真氏は蔡、稲嶺氏は毛姓である)。

 この支那党は廃藩置県に反対して中国に支援を要請した。とりわけ日清戦争中、清国勝利の祈願をするため徒党を組んで神社仏閣に参拝し、「黄色い軍艦がやがて沖縄に救援に来る」と喧伝して日本軍に志願した県出身者の家族を脅迫していた。
当時、沖縄に赴任していた内務省の官吏は、万一に備えて自警団を組織し、家族を疎開させたぐらいであった。

 その他、米軍は沖縄上陸以前に諜報工作のため潜水艦で深夜密かに県出身者を本島北部に上陸させている。
 戦前明らかに南米に移民したはずの県民が、夜間、本島内を徘徊している光景が目撃されているのだ。

 沖縄戦の直前、米軍の偵察機が日本軍に撃墜され本島中部に墜落した事件があった。第三十二軍はこれに搭載されていた沖縄県の地図に仰天した。詳細に調査されており、また地名が沖縄方言によるローマ字表記がなされていたのである。

さらに沖縄戦の最中、本島北部では警官が米軍に内通していた史実も残っている。

 ところで沖縄をめぐる情報戦は、沖縄戦の終了をもって終了した訳ではない、今度は冷戦下でさらに熾烈となっていった。しかし中国が内戦状態に陥ったため、くだんの支那党の子孫も混乱した。

 昭和五十年九月二十七日、中国逝江省沖南金湾で漁労中、中国共産党にスパイ容疑で逮捕された県人二人が十年ぶりに釈放されて沖縄に戻って来た。
 この二人は、台湾国民党の特務機関員と行動を共にしていたと言う。

 最近でも沖縄の左翼団体(反戦地主会等)が北朝鮮と密接な関係にあることが暴露されて国民を驚かせている(「諸君」平成九年五月号「沖縄『反基地運動家』の呆れた正体」参照)。
 なお検定意見撤回県民大会の参加団体の中には、日中友好協会沖縄県支部や、反戦地主会が実行委員として名を連ねていた事も国民は認識しておくべきであろう


日本軍は沖縄県民を敵として戦ったのか 
ジャーナリスト惠隆之介 
「正論」平成20年3月号p156〜157抜粋
posted by ディポ at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事・外交 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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