2008年10月17日

またぞろ“A級戦犯”分祀論が

  ≪古賀、石原両氏の発言≫
 今月18日から3日間、靖国神社の秋季例大祭が行われる。秋色いよいよ深まりゆく九段の杜を多くの人々が黙々と歩む姿が見られるだろう。本来は、こうした静かなたたずまいの中で、戦没者への追悼の思いを捧(ささ)げる場なのだが、ここ2カ月ばかり、靖国神社がまたも騒がしい議論に巻き込まれてしまった。

 そのきっかけは、8月17日のテレビ朝日系「サンデープロジェクト」での古賀誠日本遺族会会長の発言である。古賀氏は「われわれ遺族には何の相談もなく、A級戦犯を合祀(ごうし)したのは納得いかない。元に戻すことが大事」と語った。この発言に石原慎太郎東京都知事が「刑死した戦没者ならぬ、戦犯の合祀という愚挙」と応じ、古賀氏の主張する「戦争犯罪人の分祀」に満腔(まんこう)の共感の意を示したからである(9月8日付「産経新聞」)。

 真っ先に指摘しておきたい。昭和53年10月にいわゆる“A級戦犯”14人を合祀するに際し、靖国神社は事前に崇敬者総代会に諮って了承を得ていたが、総代の一人に遺族会会長である村上勇衆院議員がいたのだから、「遺族には何の相談もなく…」という古賀氏の批判は当たらない。

 この“A級戦犯合祀”が一般に知られるようになったのは、合祀の翌年である昭和54年4月19日の新聞各紙の一斉報道によってである。時の大平正芳首相は、2日後の21日に「人がどう見るか、私の気持ちで行くのだから、批判はその人にまかせる」と言い切って参拝し、さらに、その年の10月18日、翌年4月21日と参拝を続けた。

 ≪合祀反対論は「中国原産」≫
 さて、A級合祀が明らかになったことでどのような論議が起こったか。当時の新聞報道のすべてを追跡するのは大変なので、靖国参拝に最も批判的だったと見られる「朝日新聞」にしぼって検証してみると意外な事実が浮かび上がってくる。

 政界では永末英一民社党国対委員長と三原朝雄総理府総務長官が「好ましくない」との見解を述べたにとどまり、各界から寄せられた賛否の意見も紙面に登場したのは翌年のものを含めても十指に満たない。何せ「天声人語」で僅(わず)かに触れたものの、社説には一度も取り上げられたことがなかったのを見れば、このことに対する当時の一般の関心がどの程度のものであったか、おおよそ分かるだろう。

 大平首相はこの年の12月5日に訪中し、トウ小平副首相ら中国首脳と会談したが、靖国参拝への言及は全くなかったし、翌年5月27日に華国鋒首相が来日した時も同様である。振り返ってみれば、大平首相に続いて鈴木善幸首相、中曽根康弘首相が参拝を重ねたのも、このような状況下でのことだった。

 すなわち、“A級戦犯”合祀問題が首相の靖国参拝に反対する新たな論理として拡大・発展したことなどついぞなかったし(参拝反対論は依然として政教分離問題に集中)、中国もこれを理由として参拝反対を唱えることなど一切なかったということである。

 周知のように、それが表舞台に登場するようになったのは、合祀が判明してから6年以上もたった昭和60年8月15日の中曽根首相の参拝に中国が反対する論拠として唐突に取り上げたことが発端である。毒入りギョーザと同じく中国原産の輸入品であった。

 ≪首相の器量はかる物差し≫
 今日、赤紙一枚で戦地に赴いた人と戦時指導者の間には違いがあるとして、彼らの合祀を快く思わない人々がいることは承知している。しかし、これまでの経緯を見る限り、それは必ずしも日本人の間で自然に発生した議論とは言い難く、本人が意識しているか否かはともかく、中国の意向に沿う形でアレンジされた産物だと見られても甘受せざるを得まい。

 そこで古賀氏や石原氏に問うてみたい。分祀論に対する批判は既に何度も述べたのでここでは繰り返さない。何よりも、A級合祀が判明した時点から、いや、少なくとも中国がこのことを持ち出す前からこうした発言を続けてきたのか、と。一体、言論の主体性はどこにあるのか−これが両氏に対して抱く根本的な疑念である。

 9月14日の「サンデープロジェクト」は再びこの古賀発言を取り上げ、自民党総裁選に出馬した5人の候補者が見解を求められた。石原伸晃、与謝野馨、石破茂の3氏は明確に分祀論に賛同したが、小池百合子、麻生太郎両氏はそうではない。

 とにかく、麻生氏が首相に就任し、来るべき総選挙は小沢一郎氏との一騎打ちとなるが、小沢氏はかねて分祀めいた論を公にしている。靖国問題は首相としての器量をはかる物差しともなるに違いない。
国学院大学教授 大原康男 産経新聞【正論】2008.10.16
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2008年08月31日

【正論】「靖国」を全戦没者慰霊の場に

加地伸行 立命館大学教授、大阪大学名誉教授    08/22更新

 ≪やはり「心」の問題だ≫
 この8月15日、靖国神社は静かであった。ここ数年のあの騒ぎはいったい何だったのであろうか。
 中国はオリンピックや国内治安で忙しく、韓国は現政権打倒の勢力がその運動に熱中していて、靖国神社問題について何一つ騒がない。彼らにとって靖国神社問題は、所詮(しょせん)、対日政策カードの一枚にすぎず、彼らの心の問題ではなかったことをはっきりと示している。
 しかし、日本人にとって靖国神社問題は心の問題である。騒がしくない今のこのときにこそ、静かに語るべきであろう。
 これまで、靖国神社の存在の正当性について、多くの人によって語り尽くされたと言って過言でない。
 にもかかわらず、近隣諸国ならびに日本人の一部は、毎回、初歩的な話にもどるため、相変わらず同じ説明を繰り返さねばならない。その徒労から、おのずと反中・反韓とならざるをえなくなる。
 一方、日本人側からも、A級戦犯者の分祀(ぶんし)要求などという、神道についての無知、あるいは国立戦没者追悼施設建立などという、中韓への阿諛(あゆ)追従をさらけだす者がいる。

 ≪松井大将の慰霊鎮魂の誠≫
 もういい。靖国神社問題は、近隣諸国との関係などといった外面的な問題ではなく、あくまでも日本人の心、内面的な問題なのであるから、日本人の主体性に基づいての生産的な議論をすべきであろう。
 そこで、私はここに靖国神社に対して新しい一つの提案をいたしたい。それは、日本人の心に沿ったありかたとしてである。
 その提案とは、靖国神社の現行の春秋二例大祭の他に、8月15日に夏季特別大祭を新しく設けていただきたいという願いである。
 靖国神社拝殿に向かって左に、鎮魂社という小さな社がひっそりと建っている。昭和40年の創建で、靖国神社に合祀されていない日本人神霊(例えば西郷隆盛)や全世界の戦死者・戦禍犠牲者(例えば湾岸戦争関係者)の神霊がそこに祀(まつ)られている。
 その諸霊を英霊とともに新設の夏季特別大祭において降神して祭神とし、慰霊鎮魂の誠を尽くしていただきたいのである。
 A級戦犯として逮捕され、刑死した松井石根の主たる罪は昭和12年の南京事件の総責任者としてであった。しかし、松井大将は昭和14年に発願し、興亜観音の開眼(かいげん)法要を行い、敵味方ともに慰霊鎮魂し続けた。その観音寺(熱海市)には「支那事変日本戦没者霊位」「支那事変中華戦没者霊位」と記された二基の位牌(いはい)が並んでいる。
 退役した松井は戦前から昭和21年に戦犯として逮捕されるまで、雨の日も風の日も、2キロ以上の険しい山道を登って参詣し慰霊鎮魂を続けていたのであった。

 ≪敵味方なく夏季大祭を≫
 いや日本人だけではない。キューバ社会主義革命の指導者カストロは、7月26日の第一回革命記念祭において、名誉ある遺族席に、自軍兵士の両親のみならず、打倒した敵のバチスタ軍兵士の「御両親」(カストロのことば)も招いた。
 カストロ曰(いわ)く、「われわれに抗して戦いに死んだ勇敢な兵士たちの妻や子供も、(我が軍死亡者のそれと)平等に尊敬され、保護され、援助をうけなければならない。彼ら(死んだ兵士たち)はキューバの不幸について責めがあるわけではない」と。このとき、カストロ27歳(堀田善衛『キューバ紀行』)。
 戦争においては、人間は己を正しいとし、それぞれの立場で戦う。憎みあって戦う。しかし、勇敢に戦った死者に対しては、生き残った者は敵味方の区別なく勇者として遇すべきであろう。
 われわれ日本人は、慰霊鎮魂を古代から行ってきた。敵への怨(うら)みも味方への親しみも越え、「怨親(おんしん)平等に回向(えこう)する」(松井のことば)のがわれわれ日本人である。
 そうした心のままに、8月15日の靖国神社(全国の護国神社)夏季特別大祭に参拝しよう。折しも盂蘭盆(うらぼん)の期間であり、人々は祖霊と有縁無縁(うえんむえん)一切精霊(いっさいしょうりょう)とに回向するときではないか。これは国民的心情である。
 それに基づけば、日本国を代表する首相であるならば、おのずと主体的に参拝することとなるであろう。主体的なのであるから、靖国神社問題を政策カードぐらいにしか思っていない外国勢力に右顧左眄(さべん)することはない。
 いや、首相だけではない。両陛下もまた日本人の心情、「怨親平等」を深く確(しか)と理解しておられるはずである。
 「すべての戦没者のために、平和のために祈る」ことを靖国神社が具体的に積極的に示されんことを願ってやまない。
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2008年08月26日

戦没者への礼知らぬ河野議長

【土・日曜日に書く】産経新聞政治部・阿比留瑠比  2008.8.24
 ≪唐突な加害強調≫
 今年も8月15日、天皇、皇后両陛下ご臨席のもと日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開かれ、全国から約7000人の戦没者遺族や関係者が出席した。正午の黙祷(もくとう)後、天皇陛下が「全国民とともに、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し…」と軍人・軍属や一般市民の犠牲者を悼む言葉を述べられ、式は厳粛なムードで進行した。

 だが、河野洋平衆院議長が追悼の辞を読み始めると、会場の空気は微妙にざらつき出した。参列した国会議員の一人は「会場の戦没者遺族らのことを思うと、聞くに堪えなかった」と振り返る。河野氏はこう日本の「加害」を強調したのだった。

 「(日本軍による)非人道的な行為で人権を侵害され心身に深い傷を負い今もなお苦しんでいる方々に、改めて心からのお見舞いの気持ちを申し上げたい」

 先の大戦では、多くの国と地域の民が大きな損害を被った。日本も関与したそうした犠牲者に思いをはせ、反省することも大切だろう。だが、なぜ日本の戦没者を追悼するための式典で、遺族の気持ちを逆なでしてまで日本の加害を言い募らなければならないのか。

 河野氏は、昨年の追悼式でも次のようにあいさつし、日本側の被害を相対化してみせていた。

 「わが国の軍靴に踏みにじられ、戦火に巻き込まれたアジア近隣諸国の方々にとっても、あるいは真珠湾攻撃以降、わが国と戦って生命を落とされた連合国将兵にとっても同じ悲しみである」

 ≪「戦犯」も追悼対象≫
 また、河野氏は今年の追悼式では、「政府が特定の宗教によらない、すべての人が思いをひとつにして追悼できる追悼施設の設置に真剣に検討を進めることが求められる」とも述べ、政府に国立・無宗教の追悼施設設置を促した。

 河野氏は平成18年の追悼式では、「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」とも指摘している。これと合わせると、今回の発言はいわゆる「A級戦犯」14人を含む戦犯も合祀(ごうし)されている靖国神社とは異なる、新たな追悼施設が不可欠だと考えているのだろう。

 しかし、河野氏のこうした言動には矛盾がある。全国戦没者追悼式では、正面に「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が立てられるが、「霊」という言葉自体、宗教観から切り離せない。
 さらに、平成14年2月に開かれた福田康夫官房長官(当時)の私的懇談会の議事録で、政府は「全国戦没者之霊」について、「そういう方々(A・B・C級戦犯)を包括的に全部引っくるめて全国戦没者の霊という全体的な概念でとらえている」と答弁している。

 つまり、全国戦没者追悼式は河野氏が忌避する「A級戦犯」の霊も対象としているのだ。実際、追悼式には、「戦犯」の遺族も招かれ、毎年つつがなく開催されてきた。河野氏の論理では、現在の追悼式もまた、「すべての人が思いをひとつにして追悼」することができないということになる。

 ≪目立つ個人的感情≫
 それでなくても、河野氏のあいさつは、三権の長の一人としての自分の立場の重みや、時と場所をわきまえないような個人的な感情の発露ばかりが目立つ。

 昨年の追悼式では、「(日本国民は)『日本国憲法』に象徴される新しいレジームを選択して今日まで歩んでまいりました」とも述べた。この発言は、憲法を頂点とした行政、教育、外交・安全保障などの基本的枠組みを見直す「戦後レジームからの脱却」を掲げていた当時の安倍晋三首相への皮肉・反論だとみられる。

 河野氏がどんな思想・信条を持とうと自由だが、天皇、皇后両陛下が臨席され、大勢の戦没者遺族らが見守る年に一度の追悼式で、ときの首相をあてこするような発言はいかがなものだろうか。

 昨年3月には、河野氏は扇千景参院議長(当時)が世界各国の駐日大使を招いて催した「桜を愛でる会」でこうあいさつした。

 「春になると日本中埋め尽くす桜の花ですけれども、色も違いますし、咲き方も違います。しかしそれはすべて桜であることは間違いありません、全部桜です。それはあたかも日本の国の議論のようですね。これが本日の『河野談話』でございます」

 河野談話とは一般に、慰安婦募集における日本軍関与の強制性を認めた平成5年の河野官房長官談話のことを指す。そして河野氏は桜の話に例え、慰安婦の強制連行(狭義の強制性)を否定した安倍首相を批判し、外国大使に国家中枢部の意見対立を喧伝(けんでん)した形だ。

 河野氏は素直に自分の考えを伝えようとしているだけかもしれないが、議長として少しはしゃぎすぎではないか。(あびる るい)
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2006年09月12日

日本とタイの友好の証し『旧日本軍博物館』

 社会面掲載の連載「インパール作戦‐タイ 還らず」(8月15〜19日)に関し、旧日本兵の遺品を展示している「クンユアム旧日本軍博物館」を訪問したいが、どうしたらいいのか、
また遺品を保存、展示している現地のタイ人に感謝の気持ちを伝えたい、などの問い合わせを数多くいただきました。
  (社会部 将口泰浩)

 博物館があるタイ北西部クンユアムは、日本軍が昭和17(1942)年からビルマ(現ミャンマー)進攻のため、現地住民と道路建設をし、インパール作戦失敗後、傷ついた日本兵の敗走路にもあたります。実際の戦闘が行われていないことを割り引いても、非常に親日的な土地柄です。

 チェンマイから航空機でメーホンソンに行き、車で2時間ほどでクンユアムに到着。人口3500人の小さな町で、ゲストハウスが3軒しかなく、ホテルがあるメーホンソンに宿泊した方が無難です。
 タイ国内では旧日本兵ら5000人以上が死亡したといわれ、埋葬地は北部に集中、クンユアム周辺にも多く残されています。

 博物館は映画「戦場にかける橋」で知られるタイ・カンチャナブリの戦争博物館と異なり政治色はなく、すべて民間の「平和財団」(チューチャイ代表)が運営。地元住民が管理しています。銃やかばん、軍帽、工具など兵士の所持品が展示され、日本語、タイ語、英語の説明が書かれています。展示品の多くは現地で警察署長を務めていたチューチヤイ氏が集めたものです。

 1996〈平成8〉年の開館時は500点だった展示品も、現在は1000点を超え、展示しきれないのが実情です。そこで同財団ではチェンマイ郊外のムーサーン寺に博物館を建設する計画を進めています。ムーサーン寺は日本軍の病院があったところで、一角には日本兵の写真が飾られ、8月15日には慰霊祭が行われています。

 チューチャイ氏は「チェンマイならば、観光に来た人が訪問できる。できるだけ多くの日本人、タイ人に友好の歴史があったことを知ってほしい」と話しています。

 詳細は同財団HP(http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/index.html)に紹介されています。国内の連絡先は武田浩一氏(電話・FAX03・3678・6040)。
寄付の中し込みは郵便振替口座で、タイ国平和の為の財団日本事務局「00120−6−296619」へ。
産経新聞から引用

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2006年08月15日

戦後、靖国神社に参拝した天皇、皇族と首相

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産経新聞18年8月11日から抜粋
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2006年07月22日

2006年07月12日

千鳥が淵戦没者墓苑拡充候補地

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国立追悼施設化に賛否
千鳥ケ淵「拡充」自民チーム検討
 自民党は7日、「千鳥ケ淵戦役者墓苑の整備に関するプロジェクトチーム」(武見敬三座長)の初会合を関いた。身元不明の戦役者の遺骨を安置、拝礼する現在の性格は変えず、周辺の公務員宿舎などを解体して敷地を拡充し、外国首脳なども訪れやすい公園にすることが、検討の柱。ただ、党内には靖国神社の形骸化につながるとの懸念や、墓苑を国立追悼施設に変えるよう求める声もあり、論争を呼びそうだ。
 墓苑は、身元が不明で遺族に引き渡せなかった遺骨を納める「無名戦役者の墓」として、昭和28年に建設が閣議決定された。約35万柱の遺骨が安置され、毎年春に厚生労働省主催の拝礼式が執り行われている。
 拡充は、中川秀直政調会長が小泉純一郎首相に提案し、首相も検討を了承。初会合で中川氏は「靖国神社の問題、国立追悼施設とは関係なく、政府資産の有効活用の中で整備を考えていくべきだ」と述べ、墓苑を靖国神社とは別の国立追悼施設にする考えはないことを強調した。
 だが、国立追悼施設の建設を模索する山崎拓元副総裁は先に、拡充された墓苑がその有力候補になるとの考えを表明。公明党の神崎武法代表も「事実上の国立追悼施設と位置づけるのであれば、一歩前進だ」と語っている。
 逆に、靖国神社を重んじる議員は、墓苑の拡充を警戒する。「千鳥ケ淵の拡充と外国首脳の参拝促進は、相対的に靖国神社の存在感を低下させる。中川氏には、持論の『A級戦犯』の自発的分祀を靖国神社側に促す狙いがあるのでは」 (森派・議員)というわけだ。
産経新聞 平成18年7月8日引用
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2006年04月30日

千鳥ヶ淵戦没者墓苑納骨一覧表

千鳥ヶ淵戦没者墓苑について
○墓苑の概要
 大東亜戦争では、広範な海外地域で苛烈な激戦が展開され、海外における日本の軍人・軍属の戦没者及び戦火に巻き込まれて亡くなられた邦人は、合計で約二四〇万人の多さに達し、しかもこれらの多くは終戦に際し、海外に残されたままとなりました。
 戦後遺族をはじめ国民各層から、戦没者の遺骨奉還と、これに伴う「奉安墓」の建設の声が澎湃(ほうはい)として起こり、政府はこれを受けて、関係者の意見をまとめ、戦没者の「墓苑」をここ千鳥ケ淵に建設することになり、昭和三十四年三月二十八日施工に至りました。
 政府は毎年各地域に遺骨収集団を派遣しておりますが、奉還されたご遺骨のうち御遺族にお渡し出来ないものを当戦没者墓苑に奉安しております。墓苑の面積は約五千坪あり、苑内には大小の樹木約四千本が植樹され、四季を通じ鬱蒼(うっそう)と繁茂しています。
 この墓苑は厚生労働省がご遺骨の管理を、環境省が施設の管理を担当して、戦役者墓苑にふさわしい荘厳さを維持できるよう努力されています。
 なお墓苑の建設経緯など細部について興味のある方はホーム。ぺージをご覧下さい。
http://homepage2.nifty.com/boen/
千鳥ヶ淵戦没者墓苑発行の資料から抜粋

千鳥ヶ淵戦没者墓苑、靖国神社と国立追悼施設
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/26450184.html

靖国神社と国の鎮め(18項目)
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/cat_1228494.html

千鳥ヶ淵戦没者墓苑納骨一覧表.xls


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2006年04月20日

渡部昇一に靖国問題で論破された王毅駐日中国大使

私がよく読むメルマガに伊勢雅臣の「国際派日本人の情報ファイル」がある
国際情勢、国内問題、政治問題等と幅広い教養と豊富な知識に溢れた伊勢雅臣氏はまさにオールラウンドプレイヤーである。今回題材に取り上げている渡部昇一氏は日本の歴史と伝統、国家のあり方について語らせたら、右に出るものがいないといっても過言ではないと思う。
その彼が強面の王毅駐日中国大使を厳しく問い詰め、理路整然と小泉首相の靖国神社参拝問題を展開した文章が紹介されていた。
転送歓迎の許可もありあえて取り上げた
****************************************************************
■JOG Wing■国際派日本人の情報ファイル■
渡部昇一に靖国問題で論破された中国大使
伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1121 ■ H18.04.17 ■ 8,301部 ■■■■■■■

 上智大学名誉教授の渡部昇一氏が知人数人と、王毅駐日中国大使を囲んで会食した時のことである。席上、こんな歴史論争が始まった。

 その中で、中国が日本批判の口実にする歴史認識に関連して、私は発言した。シナ事変を始めたのは日本ではなく、中国の側であるということである。

 慮溝橋で最初に発砲し、攻撃を仕掛けたのは中国側であるということ。それが上海に飛び火して戦火が拡大していくのだが、この上海の飛び火は中国側の正規軍が日本人居留地を攻撃したものであること。これらを私は事実をあげて述べた。東京裁判もこれを認め、日本のシナ事変の開戦責任を問うことはしなかった。それを問えば、戦勝国である中国側の責任があらわになってしまうからだ、とも述べた。

 王毅大使はじっと聞いていたが、それだけだった。これについて、なんの発言もなかったのである。
 この点は、中国の「日本侵略批判」を根底から打ち崩す史実なので、もっと知られるべきと思う。
 王毅大使が盛んに口にしたのは、小泉首相の靖国神社参拝問題だった。
容認することはできないというのである。
知人の一人が、国のために尽くして命を捧げた人を慰霊するのはどこの国でもその国の宗教的習慣に従ってやっていることで、それに口を挟んで批判するのはいかがなものか、内政干渉ではないかと言うと、王毅大使はしきりにかぶりを振った。
そうではない、小泉首相が靖国神社に参拝して戦没者を慰霊するのには、問題を感じていないと言うのである。

 では、何が問題なのか。靖国神社には七人のA級戦犯が合祀されている。それが中国国民には国民感情として許せないのだ、というのが王毅大使の答えだった。そこで私は、A級戦犯とは何かについてやや詳しく述べた。

 東京裁判がA級戦犯とした罪状は平和に対する罪、つまり戦争を計画した罪、戦争を準備した罪、戦争を始めた罪である。日本はポツダム宣言を受諾して降伏したのだが、ポツダム宣言には確かに戦争犯罪人を裁くという条項がある。しかし、ポツダム宣言が発せられた当時、戦争を計画したり準備したり始めたりすることを戦争犯罪とする条項は、国際法のどこにもなかった。
つまり、東京裁判はなんの根拠もなしにA級戦犯と決めつけたのである。ついでに言えば、戦争を計画したり準備したり始めたりするのが犯罪であるという国際法の取り決めは現在もない。

 A級戦犯なるものが、いかに根拠がないものであるか、ということである。
 これは日本だけが主張していることではない。国際社会も東京裁判が無法で根拠がないものだったことを認めているのである。その表れが昭和二十六年に調印されたサンフランシスコ講和条約の第十一条である。

 そこには、東京裁判に代表を出した関係国の一か国以上の同意があれば、A級戦犯を釈放していいと定められているのだ

 事実、講和条約が発効すると、A級戦犯として判決を受けた人たちは直ちに釈放された。もちろん関係国の過半数も同意したからである。これは有り体に言えば、A級戦犯はなかったということである。実際、犯罪受刑者は恩給や遺族年金の対象にならなかったのだが、国会決議を経てA級戦犯とされた人たちにもこれらが支払われることになったのだ。

 また、A級戦犯として終身刑の判決を受けた賀屋輿宣は政界に復帰して法務大臣を務めた。同じく禁固七年の判決を受けた重光葵は副首相兼外務大臣になり、昭和三十年の日本の国連加盟の際は、日本代表として国連で演説を行った。では、A級戦犯を入閣させるとは何事だとか、A級戦犯が日本を代表するのはけしからんとか、どこからか非難の声が出ただろうか。どこからも出なかった。中国も何も言わなかった。A級戦犯はなかったことを認めていたからではないか。

 A級戦犯とは何かについて、事実をそのまま述べる渡部氏の意見に、王大使はどう反論したのか?

 私はこのようなことを述べたのだが、これにも王毅大使の正面からの答えはなかった。ただ、「国民感情が許さないのだ。国民感情が」と、それを経文のように繰り返すばかりだった。

 これは口にする機会がなかったが、では、その国民感情とはどのようなものなのか、である。愛国教育などによって政治的につくり出された妄想ではないのか。当たらずと雖も遠からず、だろう。日本側にだって国民感情があることを忘れているのだ。

 わずか三時間余だったが、王毅大使と話し合ってつくづく感じたことがある。それは、中国が日本に対する際の切り札に使う歴史認識や靖国参拝問題は、中国の心底の思いから出たものではないということである。あくまでも政治的駆け引きの道具として出してきているのである。このことは私のような政治も歴史も素人の言うことを、中国を代表して日本に来ている大使が論理的にはね返せないところによく表れている。はね返さないのではない。はね返せないのである。

 中国に対しては毅然とした態度で、とはこれまでに繰り返し言われてきたことである。このことを確認した次第である。

 中国の靖国参拝批判が論理的なものでないことは、このやりとりを見ても分かる。日本政府も、渡部氏のような史実に基づいた主張をして欲しいものだ。

(参考: 渡部昇一、「歴史の教訓」、「致知」H18.1)

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2005年09月27日

2005年09月25日

東條由布子さんの石原慎太郎批判のメール

>00様

貴方の『大西中将、阿南大将が靖国神社に合祀されていないと

は知らなかった、靖国神社は考えなければならない」という貴

方の感想を読んで危機感を覚えました。

新聞はこんなに大きな影響を及ぼすのですから、何かを書く場合、

話す場合、よほど精査してかからないといけませんね。

お二人とも早くから合祀されております。

遊就館の中で、阿南閣下の血染めの遺書が一番目立つ遺品ですから、

石原さんは、ただの一度も、新・旧の遊就館に行かれていない証拠に

なります。真実を貴方にもお教えしたく思います。

「MPが来たので慌てて陰に隠れて、死ねるはずもない22

口径の拳銃で撃った」とまことしやかに書いておりますが、そ

のいきさつは、様々な書物を読めば判ることです。私の本にも

書いてありますので、是非読んでくださいませ。

念のために書き添えます。

東條と日本政府の間には、日本政府が逮捕にくるという誓約が

なされていたのです。

何故なら、大東亜戦争は国際法には違反していない自衛戦争だった

と言う確固とした大義が日本にはありましたから。

従って、「連合軍が逮捕に来た場合には自決する」と祖母にも、お手伝い

さんにも護衛の巡査にも宣言していました。

60年前の9月11日,くしくも投票日の今日です。逮捕に来た連合軍

が持っていた令状は日本政府のものでは無かったのです。

東條は打ち合わせ通り、皆で手分けして家中の鍵を締め祖母を裏庭から

逃しました。

自決を成功させるため、連合軍が入ってくるまでの時間稼ぎに

応接間にはバリケードを造り、かねてから机の上に用意してい

た拳銃で撃ったのです。

恐らく利き手の左手で撃ったのでしょう。

決して、石原さんが言っているように慌てふためいて陰に

隠れて撃ったわけでもなく覚悟の自決だったのです。

それから、3年3ヶ月、東條は日本国の弁護のために、散って逝った多

くの部下たちの名誉のために、命をかけて法廷で戦いました。

その間、自決未遂については、様々に嘲笑され、軽蔑されよう

とも、一言も弁解はしませんでした。

そして、処刑の5分前に東條は花山教戒師に『自決に使用したのは

古賀の拳銃だったことを妻に伝えて欲しい」と頼みます。

何故なら、昭和20年8月15日に、自決した娘婿の古賀の死を悼み、

自決することになったなら、古賀の拳銃を使用することを心に決めて

いたのでしょう。

しかし、軍人として、戦争指導者として、自決未遂だったのは、

「初めて使用した拳銃だった、或いは銃身が長く重かった」

など口が裂けても言えないことだったのです。

死に赴く5分前に祖父はこの世で最初で最後の弁解をしたのです。

当時の医学では救命は不可能といわれるほどの出血多量で

瀕死の状態にあった祖父に、米軍は応接間で最高の応急処置を

施し大森の軍の病院に入れたのです。

東條が握っていた死ねる筈も無い22口径を見てMPが失笑していた。』

などと、石原慎太郎さんは冷たく書き放し、佐々淳行さんも

「軍人のくせに未遂するような、だらしない東條は靖国神社から分祀せよ。」

などと書いておられますが、余りにも冷酷無比ではないでしょうか。

国家、国民に対して、開戦及び敗戦の重責を詫び、死をもって償おう

とする日本の首相に向かって、これほどの侮辱に満ちた言葉は

ないでしょう。

東條の心情を思うと、一人の人間として、日本民族の一人とし

て、石原さん、佐々さんの言動を許すことが出来ません。

真実を知って欲しくて長いメールをしました。どこに転送して

いただいてもかまいません.

九月十一日 東條由布子<

posted by ディポ at 00:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 慰霊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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